第6話『飾りの価値を教えてやる』
ユリウスをつかまえたのは、令嬢たちの輪がふと途切れた瞬間だった。
「殿下。少し、よろしいでしょうか?」
俺が一礼して声をかけると、ユリウスはわずかに眉を上げ、それから鷹揚に頷いた。
「レオン・アルヴァレス殿か。エレナ嬢の兄上だな。何用だ?」
如才ない。物腰だけは本当に申し分ない。
「妹のことで、ひとつ、お願いがございます」
「ほう」
「妹は殿下の隣に立つために、毎日、それは厳しい教育に耐えております。指の角度ひとつ、視線の高さひとつ、すべて殿下の御前で恥をかかぬようにと」
俺は、努めて穏やかに続けた。怒鳴るのは簡単だ。だが、それでは届かない。
「ですから、できれば――もう少しだけ、妹を見ていただけませんでしょうか?」
ユリウスは、心底不思議そうな顔をした。
「見ている、とは? エレナ嬢は私の婚約者だ。当然、然るべき敬意は払っている。先程もキチンと挨拶をしたはずだが」
ああ。なるほど。
この男の中では、それで『見ている』ことになっているのか。
「挨拶をひとつ、ですか」
「婚約者としての責務を私は果たしている。そもそも――王太子妃とは、個人である前に、王国の公的な地位だ。私が向き合うべきは、エレナ・アルヴァレスという一人の令嬢ではなく、その座にふさわしい資質が整っているか、だろう。彼女が王太子妃たる教養を身につけること。それは王国にとって意義のあることだ。何か、不足があるとでも?」
悪気がない。
それが、一番たちが悪かった。
この男は自分が間違っているなんて、これっぽっちも思っていない。
婚約者を三歩後ろに飾っておくことが、王太子としての正しい振る舞いだと本気で信じている。エレナを見ていないことにすら気づいていない。
「殿下」
俺は、一歩、距離を詰めた。声は、まだ静かなままに。
「不躾を承知で、申し上げます。殿下にとって妹は――なんですか?」
「……何を言っている」
「教養を身につけ、御前で恥をかかず、隣に立っていればそれでいい。喋らなくていい。見なくていい。要するに――よくできた、〝飾り〟でしょうか」
ユリウスの表情が、初めてぴくりと固まった。
「言葉が過ぎるぞ、アルヴァレス」
「ええ。過ぎております。臣下として、許される一線は、とうに越えました」
俺は引かなかった。
「ですが、はっきり申し上げます。妹を飾りだと思っていらっしゃるなら――その椅子に座る資格はありません」
周囲がざわりと凍りついた。
公爵令息が、王太子に向かって。冗談でも許される台詞じゃない。
「婚約者ひとり見ていられない方が、いずれこの国の民をすべて見るのだと、そう思うと――私は……いや、俺は、少しばかり王国の先が心配になりますね」
ユリウスの頬に、さっと血が上った。
育ちのいい王子が、生まれて初めて、まともに侮辱されたという顔だった。
「貴様……!」
「殿下」
俺は、にこりと笑ってみせた。たぶん、ちっとも目は笑っていなかったと思う。
「もし俺の言葉が気に入らないのでしたら、力で黙らせていただいて結構です。ちょうど、この先に訓練場がございましたね」
売り言葉に、買い言葉。
わかっている。本当は、こんなものは挑発だ。だが、この手の男には言葉だけでは絶対に届かない。一度、地面に這わせて目を覚まさせてやる必要がある。
ユリウスは、ぐっと唇を噛み、それから――乗った。
「……いいだろう。剣の腕には、それなりに覚えがある。後悔するなよ、アルヴァレス」
上等だ。
来い、王子様。
お前が三歩後ろに飾っていたものが、どれだけのものか――その身体に教えてやる。
◇
夕暮れの訓練場に人だかりができていた。
王太子と公爵令息の私的な手合わせ。噂はあっという間に広まり、茶会の客たちが興味津々《きょうみしんしん》で柵の外に集まっている。
その最前列で、エレナが青ざめた顔をしていた。止めようとして、止められなくて、ただ拳を握りしめている。
すまん、と心の中で謝る。心配はかける。
だが、これはやらなきゃならないことだ。
「得物は、模擬剣でよろしいですか?」
「ああ。手加減はいらん」
ユリウスが、刃を潰した訓練用の剣を構えた。
その瞬間、俺は内心で軽く見ていた値踏みを訂正した。
構えに隙がない。剣先の高さ、肘の畳み方、つま先の向き。どれも教科書通りで、しかも、その教科書を「身体で覚えきった」者だけが持つ、静かな落ち着きがある。呼吸は浅すぎず、深すぎず。視線はこちらの剣先ではなく、肩のあたりに据えられていた。フェイントには釣られない、玄人の見方だ。ジリッと間合いを詰めてくる踏み込みにも迷いがひとつもない。
なるほど。これは相当に鍛えている。同年代の貴族令息が何人束になっても、まず勝てないだろう。普通の手合わせなら誰もが王太子の圧勝を疑わなかったはずだ。
――だが。生憎、俺は普通じゃない。
「では、参ります」
俺は息を吐いた。
全身に魔力を巡らせる。
指先から、足の裏まで。筋繊維の一本一本に、骨の芯まで。流し込む。満たす。圧縮する。
――『身体強化』。
世界が、ぐっと、遅くなった。
「――っ!」
ユリウスが先に踏み込んできた。鋭い、教科書通りの上段。
だが――遅い。
俺は半歩、横にずれただけで、それをかわした。風圧が頬を撫でる。たぶん、傍目には、避けたようにすら見えなかっただろう。ただ、そこに「いなかった」だけだ。
「速……っ!?」
返す刀が来る前に、俺はもう、ユリウスの懐に入っていた。
模擬剣の腹で、その手首を軽く弾く。
からん。
ユリウスの剣が宙を舞った。
一瞬だった。
いや――勝負と呼べるほどのものですらなかった。
「……っ、なに、を」
ユリウスが信じられないという顔で空になった自分の手を見た。
俺は剣の切っ先を、その喉元にそっと突きつける。動かない。
観衆が、しんと静まり返った。
ここで終わってもいい。だが、それでは「まぐれ」で片付けられる。
この手の男には、一度では足りない。
「もう一度、いきましょうか。剣を拾ってください」
切っ先を引くと、ユリウスは歯を食いしばって剣を拾い、今度はより慎重に構え直した。さっきの油断を恥じたのか、その目には本気の色が乗っている。
いい目だ。さっきまでの、すべてを見下していた目よりずっといい。
それからの数分間は、傍から見れば一方的な蹂躙だったろう。
ユリウスは打ち込んでくる。速い。鋭い。
本当によく鍛えている。普通の貴族令息なら何人束になっても敵わない腕だ。
だが、俺には届かない。
身体強化で底上げされた俺の速度と重さの前では、その一撃一撃が、ひどく緩慢に見える。受け、流し、いなし、そして――時折、わざと紙一重で避ける。
万能じゃない。神じゃない。これは、ただ魔力で身体を底上げしているだけの力技だ。維持し続ければ、それなりに身体には来る。汗が噴き出し、呼吸も浅くなる。
それでも止まらない。
妹を三歩後ろの置物にされた怒りが、燃料は腐るほどあった。
◇
最後の一撃を、俺は受けなかった。
半身でかわし、踏み込み、足を払う。
どさり、と。
王太子の背が訓練場の土に沈んだ。
倒れたユリウスの顔の真横に、俺は剣の切っ先をぴたりと突き立てた。土が、わずかに舞う。
「――参りました、と。言っていただけますか、殿下」
俺は、息を整えながら見下ろした。
ユリウスは土にまみれたまま、こちらを睨み上げていた。屈辱と、混乱と、それから、ほんの少しの――理解できない何かをその目に浮かべて。
「……っ、貴様、なぜ、ここまで」
「妹のためですよ」
俺は、剣を引いた。
「俺は、妹を飾りだと思う相手には、王太子だろうが、誰だろうが、頭を下げる気はありません。それだけです」
観衆は声もなかった。
勝った。完膚なきまでに。
爽快なはずだった。
なのに、柵の向こうのエレナと目が合った瞬間――その顔が、笑っていないことに俺は気付いた。




