第5話『三歩後ろの婚約者』
王宮の庭園は、相変わらず馬鹿げて美しかった。
手入れの行き届いた薔薇のアーチ。白い東屋。陽を弾く噴水。貴族の子女たちが、色とりどりのドレスや盛装で優雅に談笑している。
俺は壁際の護衛位置に立ち、その光景を眺めていた。
ふと、視線が足元に落ちる。
大理石の床に、やけに古めかしい紋様が薄く彫り込まれていた。幾何学的な円と線の組み合わせ。庭園を囲む柱の根元にも、同じ意匠が連なっている。
ふと踏んだ瞬間、靴底の下に冷たいものを感じた気がした。飾りにしては、彫りが妙に深い。
だが、それも一瞬だ。所詮は古い建物の意匠だろう、とすぐに視線を戻す。
今は――それより確かめるべき相手がいる。
茶会の中央には、ユリウス・レグナードがいた。
数年前、初めて顔を合わせたあの少年は、すっかり王太子らしく成長していた。端正な顔立ち。隙のない物腰。彼が一言発するたびに、周囲の令嬢たちが花のように笑う。
悪い男には見えない。
いや、たぶん本人は自分を『正しい王子』だと心から信じている。
問題はそこじゃない。
俺は、エレナを見た。
婚約者であるはずのエレナは、ユリウスから三歩離れた場所で、一人、静かに紅茶のカップを持っていた。
最初、ユリウスはエレナに気付いて形だけの挨拶をした。
「エレナ嬢。今日も健勝で何よりだ」
「はい、殿下。お招きいただき、光栄に存じます」
それだけだった。
次の瞬間には、ユリウスはもう別の令嬢のほうを向いていた。最近詩作を始めたという侯爵令嬢の話に熱心に耳を傾け、感心したように頷き、笑い、取り巻きの少年たちと何やら軽口を叩く。
その輪の中に、エレナはいない。
誰もエレナを輪に入れようとしない。婚約者だからと遠慮しているのか、それとも――この場の空気が最初からそういうものなのか。
一度だけ、エレナが、勇気を出したのが見えた。
ユリウスたちが王国北方の情勢の話に移ったとき、エレナがそっと一歩、輪へ近づいた。彼女が何日もかけて諳んじた、まさにあの分野だ。
「殿下。北方のことでしたら、わたくしも――」
「ああ、エレナ嬢。気を遣わせてすまないな。難しい話だ、退屈だろう。菓子でも楽しんでいてくれ」
ユリウスは、ちらりとも彼女を見ずににこやかにそう言った。
悪気は、本当になかった。婚約者を気遣ったつもりですらあったのだろう。だからこそ、エレナの差し出しかけた一歩は行き場をなくして、静かに引っ込んだ。
彼女が何を覚えてきたのかも、何を言おうとしたのかも、この男は知ろうともしない。
「エレナ嬢は、ああいう華やかな話はお好きでないのでしょう?」
誰かが、わざとらしくそう言うのが聞こえた。クスリと小さな笑い。
エレナは何も言い返さなかった。ただ、ほんの少しだけ顎を上げ、背筋を伸ばし、カップを口元へ運ぶ。完璧な所作で。一点の崩れもなく。
まるで、最初から、そこに飾られているみたいに。
俺は、自分の奥歯がギリッと鳴るのを聞いた。
あれだけ努力して。歴代当主の名前を一字も間違えずに諳んじて。指の角度ひとつまで直されて。その全部が、この男の三歩後ろで置物のように扱われるためだったのか。
エレナは、泣かなかった。
顔色ひとつ変えなかった。
だが、扇を握る指先が白くなっていた。ほんのわずかに震えていた。
俺にしか、わからない程度に。
――その光景を、庭園の隅から、もうひとり見ている者がいた。
白い装束をまとった、若い男だった。
王宮儀礼官のようにも、どこかの神官のようにも見える、どちらともつかない装い。年若いはずなのに、その目だけが妙に落ち着いていた。談笑にも菓子にも目をくれず、その視線は、ただエレナにだけ注がれていた。
婚約者を見守る、というのとは少し違う。
祈るようでもあり、何かを確かめるようでもある。
慈悲とも、観察ともつかない、静かな目だった。
通りかかった王家の侍従が、その男に気付いて、軽く会釈していく。
見知った相手なのだろう。それだけのことだ。
俺の視線に気付いたのか、その男は静かに目を伏せ、人の流れに紛れて消えた。
(……なんだ、今の)
背中をヒヤリとしたものが撫でた。
貴族令嬢が王太子の婚約者として注目される。それは、わかる。
だが、今のは――そういう種類の視線じゃなかった。
まるでエレナを、『誰かの婚約者』以上の何かとして見ているような。
うまく言葉にできない。けれど、確かに嫌な感触だった。
考えていると、エレナがそっと俺の隣に下がってきた。
誰にも気づかれないよう、自然に護衛のほうへ。
「お兄様」
小さな声だった。
「そんなお顔をなさらないで。わたくし、平気ですから」
平気な人間は、平気だと言わない。
俺はそれを知っている。前世で嫌というほど。
「エレナ」
「殿下は、お忙しい方なのです。王太子として、たくさんの方とお話しになる責務がおありで。わたくしのことを、おろそかにしていらっしゃるわけでは……」
言いながら、エレナの声は、だんだん小さくなっていった。
自分でも信じきれていないのだ。それでも信じようとしている。
努力すれば報われるはずだと。いつかきっと、ちゃんと見てもらえるはずだと。
俺は、何も言わなかった。
代わりに、そっとカップを受け取ってやった。
「俺は、少し殿下とお話ししてくる。お前は、ここで茶を飲んでろ」
「お兄様? ……お兄様、待ってください。お願いです、よけいなことは――」
エレナの手が、俺の袖を掴もうと伸びた。
その指先が見えていた。見えていて、俺は振り切った。
「すぐ戻る」
止める間もなく――というのは嘘だ。
エレナは止めようとしていた。その声を、俺が聞かなかっただけだ。
それでも俺は歩き出していた。
止まれなかった、というほうが、正しいのかもしれない。




