第4話『ひとりで頑張っていた』
あれから数年が過ぎた。
子供のなまくらだった手足はそれなりに育った。背は伸び、声は低くなり、毎朝飽きずに振り続けた木剣のおかげで、腕にもうっすらと筋が乗るようになった。十五になった俺の身体は、もう「ただ立派な天井の下で寝起きしている貴族の子息」ではない。
この数年、俺は本気で身体を鍛えた。剣も、体術も、そして――この世界の魔法も。
なかでも徹底的に磨いたのが――『身体強化』だった。
派手な炎も、氷の槍もいらない。魔力を、まるごと自分の筋肉と骨に流し込む。速く、重く、硬く。
要するに、人間をやめない範囲で人間離れする――地味で泥臭い魔法だ。
理由は単純だった。
いざというとき、この腕でフラグをへし折るためだ。
比喩じゃない。文字どおり、だ。
そして、そのフラグの一本目には、もう名前がついている。
ユリウス・レグナード。王太子。
いずれ大勢の前でエレナに婚約破棄を突きつける、原作最初の危険人物。
相手が王族だろうが、玉座の隣だろうが、知ったことか。あの男が妹を破滅の坂へ突き落とすというのなら――その前に、まず兄を通してもらう。腕ずくでも、だ。
穏やかじゃない決意だという自覚はある。だが、こと妹のことになると、俺は自分の頭にあまり冷水をかけたくない質らしかった。
その朝も、俺は屋敷の稽古場で汗を流した後、奥の広間へ足を向けた。
昼前のこの時間、そこではいつも別の戦いが繰り広げられている。
「――違います、エレナ様。指の角度がまるでなっておりません。もう一度」
ぴしり、と硬い声が響いた。
扉の隙間から覗くと、磨かれた床の上に淡い金髪の少女が立っていた。
エレナ・アルヴァレス。俺の妹。
幼かった頃の面影に令嬢としての気品が少しずつ重なって、最近は澄ました顔をするとハッとするほど大人びて見えるようになった。
その妹が今、白手袋の教育係を相手に優雅な礼の姿勢のままもう何十回目かわからない直しを受けていた。
「腰の位置。視線の高さ。扇の開き方。すべて殿下の御前では一瞬で評価が決まります。一瞬の崩れが、アルヴァレス家の名を落とすのです。もう一度」
「……はい」
エレナは唇を引き結び、また同じ礼をやり直す。
額には、うっすらと汗が滲んでいた。朝の挨拶の作法から始まり、舞踏、語学、歴史、王国の系譜、近隣諸国の情勢――婚約者教育という名のそれは、社会人時代に俺が叩き込まれた新人研修なんて、生ぬるく思えるほどの密度だった。
しかも、休憩がほとんどない。
「次。先日お渡しした、レグナード王家の歴代当主と、その功績を。詰まらずに」
エレナは背筋を伸ばし、すらすらと諳んじ始めた。一字も間違えない。間違えれば、また最初からだと知っているからだ。
俺は扉の陰で腕を組み、その横顔を見ていた。
誇らしい。本当に、よくやっている。
同時に、胸の奥がじりじりと焦げる。――こんなものを、毎日か。
教育係がようやく「よろしいでしょう」と頷いたとき、エレナの肩が、ほんのわずかに落ちた。安堵だ。だが、それも一瞬。すぐに彼女は背を正し、何事もなかった顔に戻る。
この光景を、俺は何度も見ていた。
誰もエレナを褒めない。父も母も、娘がこれだけのものを完璧にこなすのを当たり前のことだと思っている。公爵令嬢として、王太子の婚約者として、出来て当然。できなければ、家の恥。それだけだ。使用人たちも令嬢の努力にいちいち拍手などしない。
だから、エレナは、ずっと一人で頑張っていた。
褒められるあてもなく。励ましてくれる相手もなく。ただ、いつかこの努力が報われる日を信じて、たった一人で爪先立ちを続けていた。
その健気さに、最初に気づいたのが俺で良かったと思う。同時に――俺だけが気付いているという事実が、たまらなく胸を締めつけた。
教育係が退室し、入れ替わりに俺が広間へ入ると、エレナの表情が、ぱっとほどけた。
「お兄様!」
令嬢らしい澄まし顔から年相応の笑顔へ。
この切り替えの早さだけは昔から変わらない。
「見ていらしたのですか。……恥ずかしいですわ」
「いや。立派だった」
俺は近くの卓から水差しを取り、グラスに注いで差し出した。エレナは礼儀正しく受け取り、それでも喉が渇いていたのだろう、ひと息に飲み干した。
「あんなのを毎日やってるのか?」
「ええ。だって」
エレナは空のグラスを両手で包み、はにかむように笑った。
「わたくし、王太子殿下の婚約者ですもの。殿下の隣に立つにふさわしい令嬢でいなければ、誰にも文句を言わせませんわ」
胸を張る。その目は、本当にキラキラしていた。
努力家のこの子にとって、王太子の婚約者という肩書は、きっと自分の頑張りがようやく形になった証なのだろう。背伸びして、爪先立ちで、必死に手を伸ばして、ようやく掴んだもの。
だから手放したくない。だから誰よりも完璧でいたい。
その健気さが、俺には眩しくて――そして、少しだけ、危うく思えた。
(殿下の隣に立つにふさわしい、ね)
心の中で俺は静かに引っかかる。
その「隣」とやらに、当の殿下はどれだけの価値を見いだしているんだろうな。
「……お兄様? また、怖いお顔をしていらっしゃいます?」
「してない」
「しています」
くすくす笑って、エレナは俺の袖をちょんとつまんだ。昔と同じ仕草だった。
「今日の午後、王宮で茶会がございますの。殿下もいらっしゃいます。お兄様も、護衛役として同席してくださるのでしょう?」
「ああ。父上に頼まれてる」
というのは半分建前で、半分は俺が自分から手を挙げた。
原作で婚約破棄を宣言する男。
その男が、今のエレナをどう扱っているのか。この目で確かめておきたかった。
「では、ご一緒に参りましょう! ……あのね、お兄様。エレナ、今日のために、新しい所作も覚えましたのよ」
弾むように言って、エレナは午後に着るドレスの話を始めた。それから、ほんの少しだけ声を落として、こう付け足した。
「……今日は、もしかしたら、殿下もわたくしのことを見てくださるかもしれません。折角、頑張りましたもの」
頬をほんのり染めて。自分でも気恥ずかしかったのか、すぐに「なんて、ね」と笑ってごまかす。
その横顔はまだ何も知らない。
これから向かう茶会が、どんな顔をして自分を待っているのか。
俺はただ、頷きながら聞いていた。




