第3話『破滅フラグは――全部折る!』
その日は、夢の中を歩いている様なまま過ぎた。
慣れない名で呼ばれ、慣れない作法に戸惑い、それでも俺は子供の振りをしてやり過ごした。社会人を十年やっていた人間にとって、「わからないことをわかった顔でやり過ごす」のは割と得意分野だった。悲しいことに。
夜、自分の部屋に戻って、ようやく一人になれた。
月明かりの差す窓辺に立って、俺は記憶の引き出しを片っ端から開けていった。
『聖冠のリリアーヌ』。
妹が教えてくれた、エレナ・アルヴァレスの破滅までの道のり。
思い出せ。一つ残らず。
まず、王太子との婚約。これがすべての始まりだ。
学園に入って、平民出身のヒロインが現れる。
そこから、坂を転がるようにエレナは追い詰められていく。いくつもの濡れ衣。仕組まれた失敗。そして最後は、卒業の舞踏会での断罪。婚約破棄。国外追放。
そして――死。
破滅へのフラグが一本道に並んでいる。
どれもこれも、エレナが『悪役令嬢』であるために用意された舞台装置だ。
ただ、と俺は冷静な部分で思い直す。
俺の頭にあるのは、妹の解説の寄せ集めだ。攻略本でもプレイ動画でもない。病室の隣で聞いていた断片的な記憶。順番も、細かい条件も、あやふやなところがいくらでもある。
しかも、だ。俺という余計な人間がこの世界に入り込んでいる時点で、物語が原作通りに進む保証なんてどこにもない。知っているつもりで、肝心なところを知らない。それが、たぶん、いちばん厄介だ。
万能のカンニングペーパーを手にしたわけじゃない。
せいぜい、結末を少しだけ早く知っているだけのただの人間。
だったら、知識に頼り切るな。調べろ。足を使え。一つずつ確かめていけ。
(だったら話は早い)
俺は、窓ガラスに映る子供の顔を見た。
全部、折ってやるよ。
婚約破棄も、濡れ衣も、断罪も。並んだフラグを、一本残らず、根元からへし折る。
調べて、暴いて、ひっくり返す。手も口も頭も使えるものは全部使う。
それでも折れないフラグが残るなら――最後は、物理で折る。
比喩でも勢いでもない。文字どおり、この腕でへし折ってでも止める。
今はまだ子供のなまくらだが、いずれこの身体は育つ。
育てて、必ず間に合わせる。
今度こそ、だ。
前世で、俺は妹の電話一本に出られなかった。「後でかけ直す」と思って、後なんてものは来なかった。便利な言葉で相槌を打って、ちゃんと話を聞いてやらなかった。
「誰もこの子の話を聞いてない」と妹は言った。エレナのことを。
今思えば、あれは、俺自身のことだったのかもしれない。
もう二度と、後回しにしない。
もう二度と、見殺しにしない。
今度は、「後で」に頼らない。
あの子が目の前で笑っているうちに――ぜんぶ片付ける。
「……ふざけるな」
声が勝手にこぼれた。
前世で妹を救えなかった俺に、もう一度、妹を見殺しにしろっていうのか。あの子を悪役にして、みんなで安心して、それでめでたしめでたしだと。
そんなシナリオ、誰が認めるか。
胸の真ん中に刺さっていた棘が、いつのまにか、熱を持って燃えていた。
後悔は、消えていない。消えるわけがない。ただそれが形を変えた。
空っぽだったはずの場所に、今は、しっかりと火が灯っている。
◇
決意が固まったのが裏目に出たわけでもないだろうが、運命というやつは割とせっかちらしかった。
数日後の朝。
食堂に呼ばれた俺とエレナの前で、父――アルヴァレス公爵は、いつもより少しだけ改まった顔で一枚の書状を広げてみせた。封蝋には、見覚えのない、しかしやたらと立派な紋章が押されていた。
「エレナ。良い知らせだ」
父の声は、誇らしげだった。
「王家より正式に打診があった。お前を――王太子ユリウス殿下の婚約者に、と。近く、王宮にて顔合わせの席が設けられる」
エレナの肩がピクリと跳ねた。
膝の上で、小さな手がぎゅっとドレスを握りしめる。緊張と、それから、ほんの少しの誇らしさ。『ちゃんとした令嬢』になりたいこの子にとって、王太子の婚約者という肩書は、きっと努力がようやく報われる証に見えたのだろう。
「……はい。お父様。エレナ、精一杯、務めさせていただきます」
背筋を伸ばして、健気にそう答える妹の横顔を見ながら――俺の頭の中では、まったく別の音が鳴っていた。
ユリウス・レグナード。王太子。
原作で、卒業の舞踏会の壇上に立ち、衆人環視の中でこう宣言する男だ。
――「エレナ・アルヴァレス。君との婚約を破棄する!」
すべての破滅の、その引き金を引く人物。
原作で最初に出てくる『危険人物』。
その男との顔合わせが、今、決まった。
エレナは自分の運命を何も知らずに、頬を上気させて笑っている。これから自分が立たされる舞台が、どんな終わり方をするのか、何も知らないまま。
俺は、テーブルの下で、子供の拳をそっと握りしめた。
(上等だ……!)
来るなら来い。
破滅フラグの第一号が、向こうから歩いてくるというのなら――まずはその面を、この目で拝んでやろうじゃないか。
◇
顔合わせの日は、あっという間にやってきた。
磨き上げられた馬車に揺られ、エレナは朝からずっと落ち着かない様子だった。何度もドレスの皺を直し、何度も俺に「変ではありませんか?」と尋ねてくる。そのたびに俺は「世界一だ」と答え、そのたびにエレナは耳まで赤くして、それでも嬉しそうに膝の上で手を握っていた。
「……お兄様」
「んっ?」
「エレナ……本当は、少しだけこわいのです。知らない方にお会いするの」
ちいさな手が俺の上着の袖をきゅっと掴んだ。それでも、見上げてくる目はまっすぐだった。
「でも、お兄様がそばにいてくださるなら……だいじょうぶ。お兄様は、いつだってエレナの味方ですもの」
迷いの欠片もない声だった。
この子は、世界の何よりも先に俺を信じている。原作のレオンが一度も差し出されなかったはずの信頼を、なんの疑いもなく、こっちへ預けてくる。
その重さに胸の奥がぎゅっと軋んだ。
――だったら、なおさら裏切れない。
◇
王宮は馬鹿げて広かった。
磨かれた大理石の床。見上げても天井が遠い。歩くたびに反響する靴音。案内の侍従に従って長い回廊を進み、やがて重厚な両開きの扉の前で足を止める。
「殿下が、お待ちでございます」
侍従が扉の取っ手に手をかけた。
エレナがぎゅっと俺の手を握る。緊張で指先が冷たくなっていた。
大丈夫だ、と握り返してやる。何があっても、兄ちゃんがいる。
扉がゆっくりと開いていく。
その奥――陽の差し込む広間の中央に、一人の少年が立っていた。
まだ幼い。エレナとそう変わらない年だろう。けれど、その立ち姿には生まれながらに人の上に立つことを疑ったことのない者の、まっすぐな迷いのなさがあった。
ユリウス・レグナード。
この国の、王太子。
そして――いつか、大勢の前でエレナに「お前との婚約を破棄する」と告げる男。
原作で、最初にエレナを断罪の坂へと突き落とす危険人物。
俺は、握ったままの妹の手をもう一度そっと握り直した。
(さて。お手並み拝見といこうか、王子様)
破滅フラグの一本目に、これから手をかける。




