第2話『この子を死なせない』
「お兄様!」
扉が勢いよく開いて、小さな影が飛び込んできた。
ふわりとした淡い金の髪。
レースのたっぷりついた、いかにもお嬢様らしいドレス。
その子は、俺の姿を見つけるなり、まっすぐに駆けてきて両腕でぎゅっと脚に抱きついた。
「お兄様、おはようございます! あのね、エレナ、今日はちゃんと早起きできましたのよ。えらいでしょう?」
見上げてくる目がキラキラしていた。
その瞳に疑いの色がひとかけらもない。
俺が転んでも、迷っても、間違えても、絶対に味方でいてくれる――そう信じきった子供の目だった。
エレナ。
その名前で、すべてが繋がった。
アルヴァレス公爵家の令嬢。エレナ・アルヴァレス。
昨日まで、いや、前世で何十回と病室で聞かされた、あの乙女ゲーム『聖冠のリリアーヌ』の――悪役令嬢。
扇を口元に当てて見下ろすように笑っていた、画面の中のあの令嬢。
意地悪をして、嫌がらせをして、みんなの前で断罪される女の子。
婚約破棄されて、国から追い出される令嬢。
全身から、すうっと血の気が引いた。
(この子は――将来、断罪されて死ぬ)
婚約破棄。冤罪。追放。そして道半ばで命を落とす。
妹が画面をなぞりながら、かっこいいと笑って語っていた、あの結末。
「お兄様? どうかなさいまして?」
エレナが、こてんと首をかしげる。
俺がじっと見つめていたからだろう。小さな手が不安そうに俺の袖をきゅっと握った。
「もしかして……エレナ、何かいけないことをしましたか……?」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて切り替わった。
違う。お前は何もしてない。
まだ何もしていないのに、この世界はもうお前を悪役にすると決めている。
俺は膝を折って、エレナと目線を合わせた。
近くで見ると、この子は妹とはちっとも似ていなかった。
髪の色も、目の色も、話し方も何もかもが違う。
妹はもっと砕けていて、生意気で、いつも俺をからかってきた。
この子は背筋を伸ばして、一生懸命に「ちゃんとした令嬢」であろうとしている、不器用な小さい子だ。
別の人間だ。当たり前だ。重ねてはいけない。
それでも、握られた袖の頼りなさが、あの病室の小さな横顔と、どうしようもなく重なった。
「いいことしたよ」
気づいたら、そう言っていた。
「早起きできて、えらい。すごくえらい」
エレナの顔がぱあっと花みたいにほどけた。
「ほんとうですか! では、お兄様。今日も一日、エレナのこと、見ていてくださいます?」
「ああ、もちろんだ」
見ているどころじゃない。
「ずっと見てる。お前のことは、兄ちゃんがずっと見てるから」
子供の腕で、その小さな身体を抱き寄せた。
あたたかかった。生きている重さがあった。まだ、ちゃんとここにいる。
「お兄様、お兄様! 今日はね、お庭でかくれんぼをしてくださる約束ですわよ。忘れていませんよね?」
約束した覚えなんて当然ない。原作のレオンがしたのか、それとも昨日までの「このレオン」がしたのか。どちらにせよ俺の記憶にはない。
それでも俺は、迷わず頷いた。
「忘れてない。今日は、逃げ場のないとこまで追い詰めてやる」
「まあ、こわい。お兄様ったら容赦がありませんわ」
口元を両手で隠して、エレナがくすくすと笑う。鈴を転がすみたいな、まだ何の翳りもない笑い声だった。
令嬢らしく澄まして見せようとしては、すぐに子供に戻ってしまう。背伸びと無邪気さがぐちゃぐちゃに同居している。そういう不器用な小さい子だった。
画面の中で扇を構えて笑っていた、あの高慢な悪役令嬢の面影なんてどこにもない。今はまだ、何ひとつ。
この笑い声を消させてたまるか。
――いや、と胸の奥で自分に釘を刺す。
この子は、前世の妹じゃない。
妹を救えなかった後悔を、この子で埋めようとするな。
それは、目の前のエレナに対して一番失礼なやり方だ。
俺が守りたいのは――過去の埋め合わせなんかじゃない。
今、ここで笑っている、エレナ・アルヴァレスその人だ。
別の人間としてちゃんと守る。
そこだけは絶対に履き違えるな。
ふと、頭の隅で別の記憶が滑り込んでくる。
原作のレオン・アルヴァレス。悪役令嬢の兄。あの男は、確か――妹に、ほとんど関心を払わない、冷たい人間として設定の片隅に転がっていただけのはずだ。妹の話にも名前すら出てこなかった。エレナが孤立していく物語の中で、唯一血の繋がった肉親でありながら何ひとつ手を差し伸べなかった男。
なのに、腕の中のこの子はこんなにも俺を信じきっている。
原作のエレナがこんな顔で兄に笑いかける場面なんて一度もなかったはずだ。
(何かが、違う)
その違和感の正体は、まだわからない。
わからないが、ひとつだけはっきりしていることがあった。
この子を死なせない。
絶対に。




