第1話『いつか君を救う物語』
妹からの最後の電話に俺は出なかった。
目の前の仕事を後少しだけ。
折り返しはそれからでいい――俺は、そう判断した。
その「後で」が二度と来ないなんて、あの時は考えもしなかったんだ。
あの子が最後に何を伝えたかったのか、俺は今も知らない。
きっと、永遠に知ることはない。
わかっているのは、間に合わなかったという一点だけだ。その事実は、今も骨の奥で冷たく疼き続けている。
ただ、ひとつだけ、はっきりと覚えている言葉がある。
あの子が誰より好きだった物語の、みんなの前で断罪される悪役令嬢について――いつか、ぽつりとこう言ったのだ。
「エレナ様は、本当は悪い子じゃないんだよ」
これは、その続きの話だ。
妹を救えなかった俺が、あの子の愛したその物語の中で、今度こそ、その女の子を救おうとする――そういうやり直しの記録だ。
◇
病室の窓は、いつも西を向いていた。
夕方になると、橙色の光が白いシーツの上を滑って、妹のいるベッドのまわりだけが少しだけ世界から贔屓されているみたいに見えた。
俺が見舞いの紙袋を提げて病室に入ると、妹はいつものように枕へ背を預けて、携帯ゲーム機を両手で抱えていた。
「お兄ちゃん、見て見て! 今日ね、エレナ様の新しいスチルが出たんだよ」
「すちる、ってなんだ?」
「スチル。一枚絵。……はぁ、これだから残業しかしてない社会人は」
点滴の管をぶら下げたまま、妹は得意げに画面をこちらへ向けてくる。
映っていたのは、扇を口元に当てて見下ろすように笑う、淡い金髪の令嬢だった。いかにも高慢そうで、いかにも「こいつが悪役です」と顔に書いてあるような表情をしている。
「……どう見ても性格悪そうな顔してるけど」
「だーかーら、それが違うんだって!」
妹は唇を尖らせた。痩せた頬に、それでもちゃんと不満の色が乗る。
彼女が一番好きだという乙女ゲーム、『聖冠のリリアーヌ』。平民出身の少女が聖女候補として魔法学園に入り、やがて聖女として認められるまでの物語だ。俺は自分でプレイしたことは一度もなく、ただこの病室で何十回と隣で筋書きを聞かされてきただけだった。
――その物語で断罪される悪役令嬢を、いつか俺自身が救うことになるなんて、この時は知る由もない。
「このエレナ様ね、ヒロインのライバルで、悪役令嬢なの。意地悪して、嫌がらせして、最後はみんなの前で断罪されちゃうんだ」
「断罪。穏やかじゃないな」
「でしょ? 卒業の舞踏会でね、婚約者だった王子様に大勢の前で『お前との婚約を破棄する!』って言われちゃうの。それで、国からも追い出されて……」
妹は画面を指でつついて、別の一枚絵を呼び出した。
今度のエレナは、笑っていなかった。
豪奢なドレスのまま大勢に取り囲まれ、たった一人で顔を上げている。誰も味方のいない場所で、それでも膝をつくまいとしているような――そんな絵だった。
「ここのスチル、私、いちばん好きなんだ」
「悪役が断罪される場面が一番好きとか趣味悪いぞ」
「違うってば!」
ムッとした妹が、ぺしっと俺の腕を叩いてくる。点滴の管が揺れて、俺は反射的にそれを押さえた。
「だってさ。ここでエレナ様、泣かないんだよ。あんなに酷いこと言われて、ひとりぼっちにされても、最後まで顔を上げてるの。かっこいいでしょ。たぶん、この物語でいちばん強いんだよ、この子」
妹はそこで少しだけ言葉を切った。画面の中の令嬢を指先でそっとなぞる。
「でもね、お兄ちゃん。エレナ様は、本当は悪い子じゃないんだよ」
俺はベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしながら適当に相槌を打った。ポケットの中でスマホが震えている。会社からだ。明日の朝イチで詰められる案件の催促だろう。頭の半分は、もうそっちへ持っていかれていた。
「悪役なんだろ?」
「悪役に〝される〟の。違うんだよ。よく見ると、この子、ずっと一人なの。婚約者の王子様はよそ見ばっかりだし、お友達もいない。努力してるのに誰も気づかなくて、だから意地っ張りになって、余計に嫌われて……」
早口になっていく妹の声を俺は、半分だけ聞いていた。残りの半分で、明日の段取りを組んでいた。
「だってさ」
妹がぽつりと言った。
「だって、誰もこの子の話をちゃんと聞いてないんだもん。みんな、《《悪役令嬢だから》》って決めつけてるだけ。一回でも誰かが話を聞いてあげたら、こんな終わり方しなかったと思うんだよね」
まっすぐな目で、こっちを見ていた。
俺はその時、なんて返しただろう。
たしか――そうだな。
「お前は優しいな」
そんな、便利で、安全で、何も背負わなくていい言葉で済ませた気がする。
妹は「ごまかしたー!」と笑って、また画面に戻っていった。笑えるだけの元気は、まだあった。少なくとも、あの日は。
その頃の妹は、まだ笑えた。
入退院を繰り返してはいたけれど、こうしてゲームの話をしているときだけは、病人らしさをぜんぶどこかへ忘れてきたみたいに生き生きしていた。
俺はといえば、入社して数年、毎日が締め切りと謝罪電話で埋まっていて、見舞いに来るのも週に一度がやっとだった。それでも妹は、文句ひとつ言わなかった。「お兄ちゃんは忙しいんだから」と、こっちを気遣うようなことばかり口にする子だった。
だから俺は、甘えていたんだと思う。この時間が当たり前に続くものだと。
来週も、来月も、妹はこのベッドでいつもの調子で俺をからかってくるものだと。
「次来るとき、エレナ様のルートの最後まで見せてあげる! お兄ちゃん、絶対泣くから」
「泣かねえよ」
「賭ける?」
スマホがまた震えた。俺は立ち上がって、紙袋から取り出したゼリーを冷蔵庫に入れた。
「悪い、戻る。今週ヤマなんだ。来週、ちゃんと最後まで見せてくれ」
「うん。約束ね」
病室を出る間際、振り返ると妹は西日の中でまた画面を覗き込んでいた。
その横顔が、やけに小さく見えたことだけ覚えている。
◇
その来週は、来なかった。
残業のピークだった。深夜の事務所、ディスプレイの白い光、冷えたコーヒー。電話が鳴ったのは、ちょうど上司に呼ばれて席を立った瞬間だった。
画面に『妹』と表示されていた。
俺は親指を止めた。止めて、それから――横に置いた。
「後でかけ直す」
そう思った。本当に、そう思っただけだった。あと一件、あと一通、それを片付けてから。妹はいつだってそこにいて、明日も明後日も、来週も、そこにいるものだと、当たり前みたいに思っていた。
着信は、三回鳴って切れた。
次に鳴った電話は、病院からだった。
そこからの記憶は、コマ送りみたいに飛んでいる。タクシーの窓に流れる夜の街。消毒液の匂い。深く頭を下げる白衣。引かれていく白いシーツ。
間に合わなかった、という事実だけがやけに鮮明だった。
最後に妹がかけてきた電話に俺は出なかった。何を言いたかったのかも、もう永遠にわからない。「お兄ちゃん」のひと言だったのかもしれないし、ゲームのエンディングの話だったのかもしれない。
わからないまま、それが最後の接点になった。
着信履歴に残った三文字を、俺は何度も見た。
不在着信、妹。
その四文字が、胸の真ん中に、抜けない棘みたいに刺さった。
◇
雨の夜、横断歩道。ヘッドライト。クラクション。
俺の前世の最後は、ずいぶん呆気なかった。
次に目を開けたとき、天井が違っていた。
シミひとつないアパートの天井じゃない。見上げた先にあったのは、漆喰に天使だか花だかの彫刻があしらわれた、馬鹿みたいに高い天井だった。
頭がうまく動かない。やわらかすぎるベッド。手足が、なんだか妙に短い。
「レオン様。朝でございます」
女の声。
顔を向けると、エプロンドレスを着た中年の女性が、カーテンを引き開けていた。差し込んだ朝の光に俺は思わず目を細める。
(レオン……?)
誰だ、それは。
起き上がろうとして、自分の手が視界に入った。
小さい。子供の手だ。節くれだった社会人の指じゃない。白くて、頼りなくて、まだ何も握りつぶしたことのない手。
ベッドから転がるように降りて、部屋の隅の姿見へ駆け寄った。
映っていたのは――金髪に青い目の、十歳にも満たない少年だった。
「……はっ?」
声まで子供の高さだった。
夢か。死ぬ間際に見る、長い長い夢か。それにしては、足の裏に触れる絨毯の感触がやけに確かだった。
使用人が困った顔で近づいてくる。
「お加減が優れませんか? 今日は王都からのお客様もございますし、無理はなさらず――」
話を聞きながら、頭の片隅で勝手に情報が組み上がっていく。
ここはアルヴァレス公爵家。俺は、その長男。
名は――レオン・アルヴァレス。
アルヴァレス。
どこかで聞いた響きだった。最近――いや、前に。
〝異世界転生〟というやつか。流行りの。
まさか自分の身に起きるとは思わなかったが、足の裏に触れる絨毯も、窓の外に並ぶ石造りの街並みも夢にしては質感がありすぎた。電線も、信号も、車もない。ここはもう『現代日本』じゃない。
「レオン様? 本当に、お加減が……」
「あっ、いや! そ、その……なんでもない。寝ぼけてただけだ」
眉を下げる使用人を俺は慌てて取り繕った。記憶喪失だの熱に浮かされただのと騒がれて、自由を奪われるのは面倒だ。引き継ぎ資料ゼロの現場に放り込まれるのは社会人時代に何度も経験している。要領は同じ。笑顔で頷きながら、必要なものだけ拾えばいい。
それにしても、アルヴァレス。この家名を、俺はいったい、どこで覚えたんだ。
答えが出かけたとき、廊下の方から、軽い足音が転がってきた。
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