第35話『届かない拳』
「本当に素晴らしい光景です」
セリオは、心から感嘆したように目を細めていた。
怒りも、焦りも――そこにはなかった。
「妹を守る兄。互いを信じ合う令嬢と聖女。記録を暴く誇り高い魔術師。……ええ、ええ。これで揃いました。すべての役者が」
「……何の話だ?」
俺の問いに、セリオは静かに首を傾けた。
「卿。あなたは、まだ、お気づきでない。あなた方が抗えば抗うほど――この儀式が完成へ近づいていることに」
ゾクリと背筋が凍った。
「お教えしましょう。これが、何のための夜なのか」
セリオは、ゆっくりと両腕を広げた。輝く床を、柱を、天井を指し示すように。
「聖女とは〝光を集める者〟。世界の祈りと希望を身に集め、災厄を照らし返す者です。そして悪役令嬢とは――闇を集める〝器〟。世界中の疑いと、恐れと、怒りを一身に引き受ける者」
セリオの穏やかな声が広間に染み渡っていく。
「断罪イベントとは、その器を満たす儀式です。一人の令嬢へ人々の悪意を一点に集める。王族の婚約破棄。攻略対象の告発。貴族たちの視線。聖女の覚醒。――そのすべてが儀式の手順なのですよ」
彼の目がミリアを見た。慈しむように。
「ミリア嬢。あなたが、エレナ嬢をかばう、その美しい行いさえ。闇の隣でこそ光は際立つ。それも儀式の構成要素です。あなたがたの勇気も、抵抗も、愛も――すべてがこの器を満たす燃料に変わっていくのです……!」
俺は言葉を失った。
俺の啖呵も。ノアの暴露も。ミリアの覚悟も。エレナの誇りも。
全部。全部が、ぜんぶ。
このおぞましい儀式の薪になっていた。
抗えば、抗うほど。人の感情が高ぶる。
怒りが、悲しみが、恐れが膨れ上がる。
そして、その感情の熱がエレナ一人へ吸い寄せられていく。
俺たちは、エレナを救おうとしながら。
その手でエレナを器に仕立て上げる手伝いをしていた。
吐き気がした。あまりの悪辣さに。
「これこそが――世界を救うための仕組みです」
セリオは静かに言いきった。
「卿。覚えておいででしょう。私の生まれた村のことを。一人の少女が、穢れの器となって消えた。その瞬間、何百もの命が救われた。――この国も、ずっと同じ理屈に縋ってきました。一人に穢れを集め、一人を悪役に仕立てることで、より多くを救えるのだと。今宵、あなたがたが、その目で見ている通りに」
彼の声には嘘の響きがなかった。
それが、何よりも恐ろしかった。この男は、これを本気で救いだと信じている。
「一人が悪役になるだけで。一人がすべての穢れを引き受けるだけで。何万、何十万という人々が災厄から救われる。誰も傷つけ合わずに済む。――一人が悪役になるだけで世界は救われる。これほど慈悲深い仕組みが他にありますか?」
「慈悲深い」。
十六の女の子に世界中の罪を押しつけて消すことを。
この男は――「慈悲」と呼んだ。
「ふっ……」
「んっ?」
「ふざけるなァ!!」
声が腹の底から湧いた。
「お前の言う『救い』は、エレナを生贄にすることだ! 誰も傷つかない? 嘘をつけ!! エレナが傷ついてる。今、この瞬間も世界中の悪意をたった一人で浴びてる。それを見ないふりしての『誰も傷つかない世界』だと? お前は、いちばん弱い奴に全部のツケを押しつけて、目を閉じてるだけだ。それは、『慈悲』じゃない。ただの――『卑怯』だ」
俺は、一歩、セリオへ詰め寄った。
「それに、お前は勘違いしてる。犠牲に意味をつければ、その傷が消えるとでも思ってるのか。意味付けで楽になるのは救われた側だけだ。捧げられた奴の痛みは――お前が見たっていう、その少女の涙は、一滴も減りやしない。お前は自分が楽になるために、あの子の犠牲に『救い』って名前を貼っただけだ!」
「ええ。そのとおりです」
セリオは否定しなかった。澄んだ目で、ただ悲しげに俺を見た。
「卑怯と罵られても構いません。私が選ぶのは、いつだって確実に人が助かる道です。理想を語っている間に現実の人が死んでいく。私は、それを見てきました。……ですから、私は申し上げたはずです。世界には優しさだけでは救えないものがある、と。お別れの時間です、卿。器は、もう満ちました」
セリオが胸元の聖印に手を当てた。
そして、ただ、ひと言。
「満ちよ」
その瞬間。
広間中の文様という文様が白く燃え上がった。
ゴウッと空気が唸った。
床の幾何学が、柱の蔦が、天井の星が、一斉に目を灼く程の白光を放つ。
シャンデリアの灯りなど掻き消える。
会場のあちこちから悲鳴が上がる。
卒業生たちが、貴族たちが床に這いつくばり顔を覆う。
誰一人、この広間から逃げ出せない。出入り口は白い光の壁に塞がれていた。
最初から、そうできていた。
光が奔流となって、床を走り、柱を駆け上り、天井で渦を巻く。
そして、そのすべての光が――壇上のエレナ、ただ一人へ向かって収束していった。
いや――光だけじゃない。
光に押し出されるように広間の隅という隅から黒い影が染み出してくる。
人々が抱いた『疑い』・『恐れ』・『嫉妬』・『怒り』
今夜、ここで膨れ上がった〝ありったけの悪意〟。
それが、白い光に追い立てられて、たった一点へ流れ込んでいく。
「エレナ!!」
俺は、手を伸ばした。
エレナの足元から黒い靄が堰を切ったように噴き上がった。
茶会で見た、あんな淡いものじゃない。黒い奔流だった。
王国中からかき集められた『疑い』と『恐れ』と『怒り』の塊。
それが、彼女の足から、腰から、胸から這い上がっていく。
「お、兄……さま……」
エレナの声が遠く霞んでいく。
黒い靄は彼女の肩を覆い、首を巻き、そして――その額の上、宙にぐるりと形を結んだ。
黒い冠だった。
茨のような禍々しい意匠の漆黒の冠。それが、エレナの頭上でゆっくりと回りながら降りてくる。
悪役令嬢の器。その完成の徴として。
俺の脳裏に、かつてミリアが見せた、あの光景が一瞬よぎる。
崩れる街。燃える人々。黒い灰の降る空。
聖女の杖を握りしめても足りない光。
エレナを救った、その先で無数の命が呑まれていった未来。
あれは――この黒い穢れが行き場を無くした時の姿だ。
この器を力ずくで叩き割れば――中身があふれ出す。
そして、あの災厄が来る。
わかってる。
わかってる、けど。
今、この瞬間、目の前で妹が呑まれていく。
それを黙って見ていられるか。
「エレナァァッ!!」
俺は地を蹴った。身体にありったけの力を巡らせる。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
それでも構わず、エレナの元へ踏み込んだ。
あの冠が降りきる前に。
あの子に届いて、引き剥がす。
拳を大きく振りかぶった。
黒い靄を殴り砕くつもりで。
だが――俺の拳は、エレナの一歩手前で。
見えない壁に阻まれた。
ドンッと鈍い衝撃が腕全体を撥ね返す。
穢れが固まって防壁になっていた。黒くねっとりと渦巻く穢れの壁。
それがエレナをすっぽりと包み込み、外界から隔てていた。
「レオン、よせっ! それは、ただの壁じゃ――」
ノアの叫びを最後まで聞かなかった。
俺は、もう一度殴った。二度、三度。
身体強化を限界まで引き上げ、全体重を乗せて叩きつける。
「届け……! 届けッ!!」
拳の皮が裂けた。血が飛んだ。骨が軋む音が自分の中で響いた。
それでも、壁はびくともしない。
殴れば殴るほど、その穢れは嬉しそうに濃く、厚くなっていくようにさえ見えた。
怒りを燃料にして。俺の必死ささえ餌にして。
ノアが儀式陣を睨んだまま低く呟いた。
「……集める向きが最初からエレナ嬢ひとりに固定されてる」
強さなら誰にも負けないつもりだった。
妹に迫る破滅は、運命の補正ごと、これまで全て物理で叩き折ってきた。
王太子の前でも、教会の前でも、一度だって引かなかった。
なのに――最も肝心な時に限って。
「エレナ……!!」
穢れの向こうで。
エレナの瞼がゆっくりと落ちていく。
さっきまで、あんなにまっすぐ前を見ていた、あの目が。
黒い渦の底へ沈んでいくのがわかった。
彼女の唇が最後に何か動いた気がした。声にはならなかった。
黒い冠が、彼女の額に触れる寸前で。
俺の拳は――まだ届かなかった。




