第36話『拳では壊せない』
届かない。
何度、殴っても。
俺の拳は、エレナを包む黒い壁の手前で撥ね返された。
穢れの防壁。王国中からかき集められた『疑い』・『恐れ』・『怒り』の塊。
それがねっとりと渦を巻いて、妹を外界から隔てていた。
拳の皮は、とうに裂けていた。骨が軋む音が腕の中で響いている。
それでも止められなかった。止め方がわからなかった。
壁の向こうでエレナの瞼が落ちていく。黒い渦の底へゆっくりと沈んでいく。
額の上には――茨のような漆黒の冠が宙で回りながら少しずつ降りてくる。
あれが、触れたら――妹は『悪役令嬢の器』として完成する。
「エレナ……ッ!」
俺は腰の剣を抜いた。身体強化を限界まで引き上げる。
骨が、筋肉が、内側から悲鳴を上げる。それでも構わず刃を壁へ叩きつけた。
白刃が黒い壁に食い込む。ほんの数センチ。
だが――それきりだった。
穢れが傷口を嘲笑うようにぬるりと塞いでいく。斬っても、斬っても、同じだった。
剣を投げ捨てる。剣がダメなら、直接的にやるしかない。
今度は身体強化を全身に巡らせて、肩から壁へ突っ込んだ。
骨が砕けてもいい。そういう踏み込みだった。
学園で王太子を圧倒した、あの一撃を。何倍にも上回る力で。
――鈍い衝撃が全身を撥ね返した。
磨かれた床を靴底がずるりと滑る。壁はわずかもへこまない。
それどころか、ぶつかったその箇所が黒く盛り上がって、ぐにゃりと押し返してきた。
柔らかいのに硬い。殴れる手応えがまるでない。
水を殴っているようでも、岩を殴っているようでも、あった。
むしろ――殴れば、斬れば、踏み込むほど――壁は嬉しそうに、濃く、厚くなっていく。
会場の響めきや人々の恐怖を吸い上げて。俺のこの必死さでさえエサにして。
肩で息をする。汗が目に流れ込む。腕がもう上がらない。
なのに、壁は一ミリも薄くならない。
強さなら誰にも負けないつもりだった。
妹のためなら、王太子だろうと、教会だろうと、運命だろうと――あらゆるモノを殴り飛ばして、物理で折ってやる。ずっと、そう信じて、ここまで来た。
なのに――肝心なこの瞬間に限って。
俺の力は、何の役にも立たなかった。
「無駄ですよ、卿」
穏やかな声がした。
壇の脇でセリオが静かにこちらを見ていた。怒りも、焦りもない。
ただ慈しむような悲しげな目で暴れる俺を見守っていた。
「彼女は『悪役令嬢』です。人々がそう信じる限り――〝器〟は完成する。あなたが力を振るうほど、人々の心は波立つのです。その波がすべて、彼女へ流れ込む。あなたは、ご自身の手で妹君を満たしている。おわかりになりませんか?」
コイツの言う通りだ。
俺が暴れるほど、会場の感情が高ぶる。恐怖が、怒りが膨れ上がる。
そして――その熱が全て、エレナ一人へ吸い寄せられていく。
じゃあ、どうすればいい。
手を止めればいいのか。妹が呑まれていくのを黙って見ていろと。
できるか、そんなこと。
「レオン! よせって言ってるだろ!!」
ノアの声が壇の下から飛んだ。
彼は足元の儀式陣を睨みつけている。額には玉の汗がいくつも浮いていた。
「聞け! キミの拳で壊せるのは外殻までだ! あの壁は殴り続ければいつかは割れる。キミは世界が計算に入れ忘れた〝たった一つの変数〟なんだからな! 物理で抗える唯一の異物だ。――でも、中身は別だ! あの器の芯は物理じゃ動いてない!」
「物理じゃない……? じゃあ、何で動いてるんだ!」
「役割の承認だ!」ノアが吼えた。「中身を満たしてるのは、穢れそのものじゃない。『エレナ・アルヴァレスは悪役令嬢だ』っていう、この場の全員の思い込みだ! いいか、よく聞け。エレナ嬢自身が、その役を受け入れちまえば――器は完成する。けど、逆もあるんだよ!!」
ノアの目がぎらりと光った。
「エレナ嬢本人が。『自分は悪役令嬢じゃない』と、その役を突っぱねれば――儀式は根っこから揺らぐ! 壊すのは、キミの拳じゃない! あの子の声なんだ!!」
その言葉が稲妻みたいに頭を貫いた。
エレナが拒めばいい。
俺が殴って答えを決めるんじゃない。
エレナ自身が自分の口で、この役を突っぱねなければならない。
顔を上げる。
「エレナ! 聞こえるか! お前は――悪役令嬢なんかじゃない!! そう、言ってやれ! お前の口で!!」
俺は壁の向こうへ叫んだ。
返事はなかった。
黒い渦の底でエレナの唇がかすかに動く。けれど――その声は湧き上がる穢れに片端から呑まれていった。会場には届かない。言葉が形になる前に、黒い靄に塗りつぶされていく。封じ込められている。彼女の声そのものが。
俺は拳を握りしめた。
声が届かない。あの子の最も肝心な声が。世界に聞こえない。




