第34話『エレナ様の隣へ』
「いい啖呵だ! 流石、僕らのレオンだね!」
壇の下からノアの声が響いた。
彼は、ツカツカと広間の中央へ進み出ていた。
「でもね、レオン……君が正しいことをいくら叫んでも、この連中はもう自分の頭で考えられない。記憶を書き換えられてるんだから。――だから、見せてやろう。書き換えの、その『痕跡』を。会場丸ごとだ!」
ノアは懐から例の研究記録をちらりと覗かせた。白紙に戻された〝あの頁〟を。
「僕の記録まで世界の都合で塗り替えられると思われたのは……まあ、少しばかり不愉快でね」
軽い口調。だが、その目だけは笑っていなかった。
ノアが両手をゆっくりと広げた。
「映せ」
短いひと言と共に、広間中の空気が淡く震えた。
次の瞬間、半透明の像がいくつも、いくつも宙に立ち上がった。
給仕の手。茶器。証人たちの顔。そのどれもが二重にぶれていた。
一枚は、エレナが手を伸ばす偽の絵。
その下に剥がれかけた壁紙のように別の絵が透けている。
給仕の手。エレナの伸びていない手。
そして、その二枚の絵の境目に。
誰のものでもない、第三の魔力がべっとりと塗り重ねられた跡が白銀に光っていた。
――教会の聖印の意匠で。
「見えるかい、皆さん?」ノアの声が広間に通る。「あなたがたの『記憶』は、ほんの数分前に上から塗り直されている。証言も、物証も、ぜんぶだ。誰かの手で、絵が描き替えられた痕がこうして残ってる。――あなたがたが、たった今『思い出した』ことは、本当にあなたがたの記憶ですか?」
騒めきが戸惑いに変わった。
二重にぶれる像を見上げて、貴族たちが顔を見合わせる。
「二重に……見えるわ……」
「では、わたくしが、思い出したことは……?」
「いや、しかし! 聖印が改竄を……? まさか、教会がそんな……!」
さっきまでの揺るぎない確信がグラリと傾いた。
全員ではない。書き換えの力は強い。あの像も放っておけば、すぐにまた塗りつぶされる。
ノアの額には、もう玉の汗が浮いていた。
長くは保たない。
それでも――この一瞬、人々は見てしまった。「自分の記憶が外からいじられたかもしれない」という可能性を。一度、芽生えた疑いは、もう完全には消せない。
その揺らぎの中を。
すうっと、一つの人影が人垣を割って歩み出た。
ミリアだった。
彼女は、まっすぐに壇の上へ歩いてくるとユリウスたちの側を通り過ぎ――エレナの隣に立った。
「ミリア・フォルテ?」ユリウスが狼狽した。「君は被害者だ……何故、その女の隣に――」
「殿下」
ミリアは胸の前で両手を固く握りしめていた。その手は震えていた。
それでも彼女は顔を上げ、はっきりと言った。
「――私はエレナ様に毒を盛られていません。 彼女は、私に『飲むな』とおっしゃったんです。私を守ってくださったんです。それが――真実です。何度、記憶を書き換えられても、私だけは、それを手放しません」
彼女の声は平民らしい少し硬い言葉づかいのままではあるも、まっすぐだった。
聖女候補としてヒトに好かれるように振る舞ってきた作り物の明るさは、そこにはなかった。
剥き出しの本音だった。
「ミリア、様……」
エレナが隣の少女を見た。
ミリアはチラリとエレナを見返し、それから、もう一度、広間の全員へ向き直る。
「私は、聖女候補です! いつか……聖女になるのかもしれません。皆さんは、聖女が悪い令嬢を裁いて、世界を救うものだと思っているのでしょう。ですが――」
声が震えた。けれど、止まらなかった。
何度も、何度も巡る世界の中で、その言葉だけは一度も言えなかった。
今、初めて、言おうとしている。
そんな覚悟の震えだった。
「――私はエレナ様を断罪するために聖女になるんじゃありません!」
会場が静まり返った。
エレナが隣のミリアを見た。二人の少女の視線が絡む。
『悪役令嬢』と『聖女』。
物語が敵同士に仕立てた二人。
嫉妬も、わだかまりも、確かに存在した。
それでも――今ここに、二人は肩を並べて立っていた。
同じ運命に巻き込まれた少女として。
何かが確かに通じ合った。
ほんの一瞬。
エレナの足元の黒い靄が薄れた。ミリアの胸元から淡い温かな光が滲み出し、それを押し返していた。
聖女の光だった。
希望のひとかけら。
俺は拳を握った。
いけるかもしれない。
聖女が悪役令嬢を裁かない。物語が決めた役を二人が拒む。
この流れを掴めば――この捩じ曲がった夜をひっくり返せるかもしれない。
その考えを――穏やかな声が断ち切った。
「素晴らしい」
セリオだった。




