第32話『覆るすべての勝利』
「殿下――婚約破棄だけでは済みません」
穏やかな声だった。
白い装束に銀の聖印。セリオ・クラウスだった。
彼は悲しげな目でエレナを見つめ、それから手にした一枚の書面を掲げた。
「アルヴァレス嬢の罪は聖女候補への害意に留まりません。順を追って、お示ししましょう」
彼が合図をすると、壇の脇から給仕の男が進み出た。茶会の日に青い縁の茶器を運んだ、あの男だ。男は震える手で何かを掲げた。
あの毒の小瓶だった。アルヴァレス家の紋章が刻まれたアレだ。
「この小瓶は、茶会の現場で発見されました。アルヴァレス家の紋章入り。中からは卓布を変色させたものと同じ毒が検出されています」
セリオの声は淡々としていた。
「そして――茶器に残された毒の魔力痕。これを調べ直しました。結果を申し上げます。――その魔力は、エレナ・アルヴァレス嬢、本人のものと完全に一致いたしました」
「待て!」
俺は思わず声を上げた。
あの茶器の魔力痕はエレナのものじゃない。ノアの記録魔法が証明していた。給仕の手だった。違う第三者の手で書き換えられた痕跡まで残っていた。あの場で、確かに暴いたはずだ。
なのに――。
「ご覧ください」
セリオが書面を宙にかざした。
光が走る。半透明の像が立ち上がる。茶会の、あの天幕。青い縁の茶器。
そして――その茶器にすうっと手を伸ばす水色のドレスの令嬢。
エレナだった。
ありもしなかった光景が。あの日、ノアの記録の中で上書きされた偽物の像が。
今度は、教会の『正式な証拠』として堂々と掲げられていた。
「お……思い出しました」
給仕の男が震える声で言った。
「私は……確かに見たのです。エレナ様が茶器に手を伸ばされるのを……」
「わたくしも」
人垣の中から年配の貴婦人が進み出る。茶器を倒した、あの婦人だ。
「あの方が袖から小瓶をお出しになるのを。この目で、確かに」
ぞわりと鳥肌が立った。
茶会の時と同じだ。だが、規模が違う。
あの時は証人が二人だった。今は――広間にいる誰もがエレナを疑う。その視線のひとつ、ひとつが見る間に確信へと固まっていく。
書き換えが起きている。会場全体の記憶が。
「そういえば――」
誰かがぽつりと言った。
「教材が破られた事件も。あれも、アルヴァレス嬢では?」
「魔法を暴走させて、ミリア様を傷つけようとなさったわ。わたくし、見ましたもの!」
「聖女様をずっと、妨げようと――」
「あれは、もはや……王国そのものへの反逆では?」
声が、声を呼んだ。
ひとつ、ひとつは根も葉もない噂のかけらだ。だが、それが毒殺未遂という一本の太い軸に、次々と貫かれて繋ぎ合わされていく。教材も、暴走も、聖女妨害も、国家反逆も。バラバラだった出来事が、「やはり、すべて、エレナ・アルヴァレスがやったのだ」という、たった一つのなめらかな物語へと組み上がっていく。
俺は立ち尽くした。
反論しようとした。
「教材破損は別の令嬢の仕業だ」と。あの時、証明したはずだ。
「魔法暴走はエレナのせいじゃない」――そう叫ぼうとした。
だが、無駄だった。
一件ずつ、ほどいて、もう一度、説明し直す? どうやって。
この場の全員が、もう別の記憶を持ってしまっている。俺が「あれは違う」と言えば言うほど、人々の目には悪あがきにしか映らない。証拠を出しても、出したそばから塗り替えられる。茶会でノアが嫌というほど思い知らせてくれた。
たった一件。
毒殺未遂という、ただ一件の象徴的な事件。
それが、ひっくり返された。
たった、それだけで――茶会であれほど苦労して暴いた全ての勝利が。教材破損の真相も、暴走の弁明も、何もかもがまとめてなかったことにされた。一本、ドミノを倒されただけで、これまで積み上げてきた牌が音もなく後ろから全部崩れていく。
会場の床の文様が、一層明るく輝きを増した。
人々の疑念が、恐怖が、怒りが――燃料となって儀式に注ぎ込まれていく。
その熱の行き着く先で。
エレナの足元の黒い靄が、もはや隠しようもない程、濃く立ちのぼっていた。
「……っ!」
エレナの顔から血の気が引いていた。
自分の記憶が自分のしたことが広間中の全員から悉く否定されていく。世界そのものに「お前は間違っている」と囁かれ続ける、あの恐怖。茶会で一度味わった、あの感覚が。今度は、何百という人の口を通して彼女に襲いかかっていた。
それでも――エレナは膝をつかなかった。
唇を噛み、扇を握りしめ、震える脚を奥歯の力で支えていた。
崩れ落ちることだけは、断固として拒んでいた。
そして、震える声をまっすぐに張った。
「わたくしは、その茶器に触れておりません」
騒めきの中に、その声は細く、けれど確かに通った。
「皆さまが何を思い出されても。証拠がどう書き換わっても。――わたくしは、わたくしの記憶まで差し出すつもりはございません……!」
完璧な反論じゃない。証拠もない。
ここにいる全員の記憶が、もう別の絵に塗り替えられている。
それでも、エレナは、たった一つ、自分の中の真実にしがみついて声を上げていた。
その背中を見た瞬間。
俺の中でこらえていたものがプツリと切れた。




