第31話『婚約破棄承りました』
「皆、聞いてくれ」
ユリウスの声が広間によく通った。
王族らしい端正な声。だが、その響きにはいつもより、ずっと硬いものが混じっていた。
まるで予め書かれた台本を読み上げているような。
彼の視線が人垣を割って、まっすぐにエレナを捉えた。
「――エレナ・アルヴァレス」
会場中の顔が一斉にこちらを向いた。
「君との婚約を――破棄する!」
ざわっと空気が震えた。
予期していた言葉だった。原作通りの断罪の口火。頭ではわかっていた。
それでも、隣でエレナの息が一瞬止まったのがわかった。
扇を握る指がキュッと強張る。唇がほんの少しだけ引き結ばれる。
傷ついている。当たり前だ。
何年もこの男の隣に立つ為に全てを捧げてきたんだ。
一晩でそれを紙くずのように捨てられた。
会場の視線がエレナに集まった。
哀れみではない。好奇だった。
悪役令嬢が化けの皮を剥がされる、その瞬間を誰もが息を詰めて待っていた。
扇の陰で唇の端を吊り上げている令嬢さえいた。
俺は咄嗟に前へ出かけるも――エレナの手が俺の袖を軽く引いた。
待って、と。
「殿下」
エレナは一歩前へ出た。
壇上のユリウスをまっすぐに見上げる。震えを奥歯で噛み殺した令嬢の声だった。
「理由を……お聞かせ願えますか?」
「とぼけるのか?」ユリウスの眉がひそめられた。「君は、聖女候補ミリア・フォルテに毒を盛ろうとした。証拠も、証人も揃っている。王国の未来の聖女を害そうとする者を私の隣に置くわけにはいかない。婚約者としての責務を――君は自ら放棄したのだ」
「責務」。「正義」。「王国の未来」。
――如何にも正しげな言葉がポンポンと並べられていく。自分の言葉に酔っているみたいに。
俺は内心で舌打ちした。
この男は、結局、最後までエレナ自身を見ていない。『婚約者』という肩書きしか見ていなかった。
原作なら、ここでエレナは崩れる。婚約を取り戻そうと縋る。
「違います! 誤解です! わたくしを信じてください!」と。
涙ながらに訴える。そして――その必死さがかえって見苦しいと嘲笑される。
「……そうですか」
だが、エレナの口から漏れたのは縋る声ではなかった。
奇妙に静かな声だった。
彼女はゆっくりと瞬きをした。何かがすとんと腑に落ちたような、そんな顔で。
「殿下。わたくし、長い間、勘違いをしておりました」
「……何?」
「わたくしは、あなたの隣に立つ為に努力してきました。礼儀作法も、語学も、社交も。眠る時間を削って、指が割れるまで刺繍を覚えました。全ては、あなたに相応しい婚約者でありたかったから。――そう、思っていたのです」
エレナの声は震えていなかった。
握りしめていた扇からふっと力が抜けた。
「ですが……違ったのですわ。わたくしが欲しかったのは、あなたではありませんでした。『努力すれば報われる自分』。『正しくあれば認められる自分』。わたくしは、それにしがみついていただけ。あなたは、そのちょうどいい容れ物だった。それだけのこと」
ユリウスの顔が戸惑いに強張った。
縋られることには慣れている。だが、こんな風に、静かに見限られることには――慣れていない。
「――殿下。婚約破棄、承りました。あなたに認めていただかなくても、わたくしの努力は、わたくしのものです。それだけは、誰にも――あなたにもお返ししません」
深く優雅に。
エレナは淑女の礼をとった。
それは、別れの挨拶だった。
恋を失った娘の未練ではなく。一人の人間が、もう一人の人間に「これきりです」と告げる、けじめの礼だった。
広間が静まり返った。
誰も予想していなかった。悪役令嬢は、ここで泣き崩れるはずだった。許しを乞い、見苦しく取りすがって、嗤われるはずだった。なのに、目の前の令嬢は傷を負ったまま真っ直ぐに立って、自分から幕を引いていた。
期待していた惨めな見世物が与えられなかった。人々は毒気を抜かれたように、ただ立ち尽くしていた。
俺は思わず、その横顔を見ていた。
泣いて、縋って、俺に助けを求める妹は、もう、どこにもいなかった。
傷つきながら、それでも自分の足で立って、一番大切なものだけは手放さずにいた。
いいぞ、エレナ。
お前は、もう誰かに認められるための人生を生きなくていい。
――誇らしさが胸を突いた。
ユリウスは壇上で何か言いかけては口をつぐんだ。言い返す言葉を探しているようだった。
だが、見つからない。自分が捨てたはずの相手に、こうもあっさりと見限られた。
その事実をどう受け止めればいいのか、わかっていない顔だった。
だが、その沈黙を噛みしめる暇は、俺たちにはなかった。
壇上に新たな人影が進み出ていた。




