第30話『灯りはじめた聖印』
卒業舞踏会の夜が来てしまった。
逃げられるなら逃げていた。
だが――卒業の式典を欠席すれば、それこそ『やましいことがある令嬢』の烙印を自ら押すようなものだ。茶会での一件以来、エレナを取り巻く疑いの目は消えるどころか、じわじわと濃くなっていた。
この会場が巨大な器だと知りながら。それでも、俺たちはここへ来るしかなかった。
この数日、俺たちは足掻けるだけ足掻いた。
ノアは地下の儀式陣を夜を徹して読み解いた。
ミリアは過去のループで見聞きしたことを思い出せるだけ紙に書き出して寄越した。
エレナは――震える手で自分が何をして、何をしていないかを一語一語控えた。書き換えられても、自分だけは真実を手放さずにいるために。
それでも、儀式そのものを止める手立ては遂に見つからなかった。
逃げるか。立ち向かうか。
道は、二つしかなかった。
そして、俺たちは――いや、エレナが「立ち向かう」と言った。
――「お兄様の後ろに隠れて、震えているだけの妹ではもういたくないのです」
茶会の前、馬車の中で、そう言った妹の言葉を俺は忘れていない。
だから、今夜――俺はエレナを柱の陰に隠さなかった。
隣に立たせた。守るためではなく――二人で迎え撃つために。
学園の大広間は、目映いほど飾り立てられていた。
天井から吊られた無数のシャンデリア。磨かれた大理石の床に、それが何重にも映り込んでいる。着飾った卒業生たちが、ゆるやかな弦楽に合わせて踊っている。
笑い声。グラスの触れ合う音。咲き乱れる花。
三年間の学園生活を終える令息令嬢たちにとって、今夜は人生でいちばん晴れがましい一夜のはずだった。誰の目にも、ここは青春の幕引きを祝う輝かしい宴の場だった。
俺の目にだけは違って見えた。
床に敷き詰められた幾何学の意匠。柱に彫り込まれた蔦のような紋様。天井を飾る星形の装飾。
――ノアと王宮の地下で見た、あの儀式陣の文様と寸分違わず同じだった。
この広間は、宴のために飾られたんじゃない。
最初から、こういう夜のために組み上げられている。
「お兄様」
隣でエレナがそっと声をかけた。
白を基調にした夜会のドレス。背筋はまっすぐに伸びている。
だが、扇を握る指先がほんの僅かに白くなっていた。
「皆さま、わたくしを見ておられますわね」
言葉通りだった。
踊りの輪のあちこちから、扇の陰で囁きが交わされている。
視線が、ちらり、ちらりとエレナへ向けられる。
『毒を盛った悪役令嬢』――そういう像が既に人々の頭の中で勝手に固まりはじめている。
そして――その視線が集まる度に。
エレナの足元の磨かれた床のあたりに薄くて黒い靄のようなモノがゆらりと湧いては消えた。
本人は気付いていない。
「レオン」
反対側から低い声がした。
着慣れない正装を面倒くさそうに着こなしたノアが壁際からにじり寄ってきていた。
「来てるよ。さっきから、床の文様が温まってる。僕の見立てだと――今夜の宴が、ある程度進んだところで起動する。人が集まって感情が高ぶった、その熱を燃料にする気だ」
「止められるか?」
「術式そのものを? 無理だね。この規模を止めるなんて、僕の手には余る」ノアは肩をすくめた。「僕に出来るのは、せいぜい、起きたことの『記録』を残すことくらいさ。後は――キミがなんとかするんだろう?」
軽口の体裁を取りながら、その目は笑っていなかった。
俺は答える代わりに、エレナの背にそっと手を添えた。
守るようにではない。お前はここにいる。俺が見ている。
――そう伝えるように。
エレナはほんの少しだけこちらを見上げて頷いた。
怖がってはいた。けれど、目だけはまっすぐに前を向いていた。
少し離れた人垣の中にミリアの姿があった。
聖女候補として招かれた彼女は淡い色のドレスを纏い、いつも通り、人に囲まれている。
だが、その笑顔の下で彼女もこちらを痛いほど気にしているのがわかった。
何度も巡った夜を、また迎えてしまった――そんな疲れきった顔だった。
一瞬、目が合う。ミリアはほんの小さく頷いてみせた。「私もいます」と言うように。
弦楽が、一際、高く鳴った。
その時、床の意匠がふっと淡く光った。
気のせいじゃなかった。
幾何学の線が息を吹き返すように、ひとつ、またひとつと灯っていく。
床から柱へ。柱の蔦の彫りを伝って天井へ。
天井の星形が内側から青白く滲み出す。
光は血管に血が通うように、ゆっくりと広間全体へ回っていった。
空気が変わった。
甘い花の香りの底に、湿った土のような冷たい匂いが混じりはじめる。地下のあの貯蔵庫で嗅いだ淀んだ魔力の匂いと同じだった。
会場の騒めきがピタリと止んだ。
誰もが、何か、得体の知れないものを肌で感じ取って、口をつぐんだ。
それでも、その『異変』を不吉だとは思っていないようだった。
むしろ、何か荘厳な儀式が始まる――そんな漠然とした期待のような色さえ人々の顔には浮かんでいた。
仕込まれてる。
俺はゾッとした。
この場の空気の流れまで儀式の一部だ。
人々はこれから起きることを『正しいこと』として受け入れる準備を勝手に始めている。
広間の奥、一段高くなった壇上に人影が立った。
――王太子、ユリウス・レグナードだった。




