第29話『舞台装置』
「レオン、来てくれ」
その夜。
客間でまんじりともせず夜を待っていた俺の元にノアから声がかかった。
彼は、王宮の使用人区画の、更にその奥。普段は誰も使わない古い貯蔵庫の床にしゃがみ込んでいた。
外した石畳の下から冷たい湿った空気が立ち上っている。地下へ続く狭い階段が口を開けていた。
「茶会場の魔力痕を辿ったんだ」ノアがランプを掲げた。「あの聖印の魔力。元を辿れば、全部、この真下から湧いてた」
俺は、ノアに続いて階段を降りた。
石段は湿って滑った。一段降りるごとに、空気が重く冷たくなっていく。ランプの炎がすうっと細くなる。まるで、ここでは炎すら息をしづらいかのように。
壁に手をつくと、指先にピリリと痺れが走った。
魔力だ。古く淀んだ厚みのある魔力が、壁という壁に染み込んでいる。
何百年も、ここで煮詰められてきたような。
「足元、気をつけろよ」ノアが前を行きながら言った。「ここは、ただの地下室じゃない。降りるほど、空気の『質』が変わる。普通の人間なら、この階段の半場で訳もなく引き返したくなるはずだ。来るな、入るな、見るな――そういう拒絶が『術』として編み込まれてる」
「お前は、平気なのか?」
「平気なもんか。僕が、これでも相当頑張って足を前に出してる。キミは……まあ、相変わらず、頑丈だね」
軽口にしては力がなかった。それだけ、ここの空気が異様だということだ。
降りた先は――広い円形の地下室だった。
ランプの光が壁を舐めていく。その瞬間、俺は息を呑んだ。
床一面に。壁一面に。天井にまで。
無数の文様が刻まれていた。
古い。ひどく古い。王宮が建つよりもずっと前からここにあったような。
そして、その中央には――茶会場の卓布に浮かんだのと、まったく同じ白銀の聖印が巨大に刻まれていた。
「儀式陣だ」
ノアはランプを置き、床の文様に手のひらをかざした。
「――還れ」
短い詠唱。
文様の一部が淡く光った。光は線を辿り、図形を描き、やがて、ノアの指先に複雑な術式が立ち上がっていく。彼はそれを長い間、無言で読んでいた。
いつも軽口を叩く男が一言も喋らない。それが何より不気味だった。
「……ノア」
俺はたまらず、声をかけた。
「これは何だ? 何のための陣なんだ?」
ノアは、すぐには答えなかった。
立ち上がり、地下室をぐるりと見回す。床の聖印を。壁の文様を。そして――何かに思い至ったようにハッと顔を上げた。
「……いや。違う」
「何がだ?」
「これは、本体じゃない。小さすぎる。この陣は、もっと大きな何かの――『縮図』だ。設計図の写しみたいなものだ。ここで術式の調整をして、本番の器に合わせ込んでる」
ノアの指が宙に描いた術式をなぞる。
「この紋様の組み方。穢れを集めて、一点に収束させる、この構造。僕は、これとそっくり同じものを、つい最近、別の場所で見ている」
俺の背筋がぞわりと粟立った。
「……どこで」
ノアは、ゆっくりと俺を振り返った。
その顔から、もう、笑みは、完全に、消えていた。
「学園の、卒業舞踏会場だよ」
俺は、思わず息を止めた。
「床の意匠。柱の彫刻。天井の星形の装飾。前に、僕らがただの古い飾りだと思って、見過ごされていた、あの全部が……」
ノアは、地下室の中央の巨大な聖印を指さした。
「これと同じ術式の一部だ。卒業舞踏会場は、飾りつけられた宴の会場なんかじゃない。最初から、そういうふうに建てられてる」
俺の頭に、ひとつの光景が浮かんだ。
煌びやかな卒業の夜。シャンデリアの下で着飾った生徒たちが踊っている。
その中央にエレナが立っている。原作で悪役令嬢が断罪される、あの夜だ。
今日の茶会で疑いが集まる度に、エレナの足元に湧いたあの黒い靄。
あれが、もし――。
あの舞踏会場、まるごとの規模で。
エレナ、ただ一人に向かって、王国中から注ぎ込まれるとしたら。
背筋を氷の手で撫でられたような気がした。
俺たちが、これから足を踏み入れる、その晴れ舞台こそが。
最初から妹を呑み込むために用意された罠だった。
ランプの炎がゆらりと揺れた。
地下室の冷気が俺の肺の奥まで染み込んでくる。
「これは、断罪のための舞台装置だ。レオン」
ノアの声が地下室に低く響いた。
「卒業舞踏会場そのものが――巨大な『器』になる」




