第28話『拳では届かない』
茶会は、結局、有耶無耶のままお開きになった。
誰もエレナをその場で裁きはしなかった。だが、誰も無実を認めもしなかった。
アルヴァレス家の紋章入りの小瓶。書き換わった証言。『毒を盛った悪役令嬢』という像だけが薄い染みのように人々の中に残った。
事件が事件だ。茶会の参加者は、当面、王宮を出ることを許されなかった。
とりわけ、「アルヴァレス家には追って事情を聴く」と通達が来た。
俺とエレナは、その日のうちに屋敷へ帰ることも出来ず、王宮の客間に留め置かれることになった。
遠くで王太子ユリウスがこちらを見ていた。
婚約者であるはずのエレナに駆け寄るでもなく。庇うでもなく。ただ、難しい顔で距離を置いて、眺めていた。その目には疑いと失望が半分ずつ。自分の見たいものだけを既に見始めている目だった。
婚約者なら、まず本人に何があったのかを問うはずだ。
だが殿下はエレナの言葉を聞く前から、もう天秤を傾けかけていた。しかも本人は、それを『公正な判断』だと信じて疑っていない。
――その無自覚さこそが何より質が悪かった。
俺はエレナを連れて、その場を離れた。
歩きながらエレナがぽつりと言った。
「お兄様。証言も、証拠も好きに書き換えればいい。……でも、わたくしの記憶だけは。わたくしが何をして、何をしていないか。それだけは誰にも――世界にだって奪わせません」
まだ震えてはいたが、その声の芯は、まっすぐに通っていた
俺は何も言わず、その肩に手を置いた。
書き換えられても、塗り潰されても、自分の中の真実だけは手放さない。
そう言いきれるこの子がどれほど心強く、どれほど危ういか。今の俺にはまだわからなかった。
エレナを客間へ送り届け、付き添いの侍女に託したあと。
俺は一人、長い、人気のない回廊を引き返していた。
その途中だった。
「アルヴァレス卿」
穏やかな声が背後からかけられた。
振り返ると――白い装束の青年が立っていた。
灰がかった淡い色の髪。胸元で銀の聖印が静かに光っている。
あの演習場の回廊で惨劇に祈りを捧げていた、あの人影だ。間違いない。
「申し遅れました。セリオ・クラウスと申します。教会の末席に連なる者です」
セリオは丁寧に頭を下げる。物腰はどこまでも穏やかだった。
俺は、警戒を隠さなかった。
「教会の人間が何の用だ? 今日の茶番にも、アンタらの聖印が絡んでたみたいだが?」
「茶番、ですか……」
セリオは悲しげに目を伏せた。怒りでも、嘲りでもなく、ただ純粋な悲しみで。
「あなたには、そう見えるのでしょうね。妹君を何としても守りたい。そのお気持ちは尊いものです。本当に……ですが、卿。少しだけ……私の話を聞いてくださいませんか?」
立ち去ろうとした俺を、その静かな声が何故か引き止めた。
「私の生まれた村は、もう、ありません」
回廊の窓から傾きかけた陽が差し込んでいた。
「幼い頃、地方で小さな災厄が起きました。穢れが土地に溢れ、家畜が死に、子どもがばたばたと倒れていった。何百という人が苦しみ、死にかけました。誰にも止められなかった。――その時、教会が選んだのです」
セリオの声は、静かなまま続いた。
「一人の少女を。穢れを、その身に引き受ける『器』として捧げました。彼女が、すべての穢れを一身に背負って消えた。その瞬間、災厄は嘘のように止まりました。何百もの命が助かったのです。私も、その一人でした」
俺は何も言えなかった。
「私は見ました。捧げられる、その少女の涙を。『怖い』と彼女は言いました。『死にたくない』と……忘れたことは、一度もありません」
セリオは胸元の聖印にそっと手を当てた。
「ですが、卿。もし、あの少女がいなければ……私は、今、ここにいません。あの村の生き残った全員が死んでいた。彼女の犠牲は、確かに何百もの命を救ったのです。それは――無意味だった、と言えますか?」
穏やかな声で。穏やかな顔で。
この男は、世界で最も悍ましいことを言っていた。
「犠牲に意味があるなら――それは〝救い〟です」
俺の中で何かがぶつりと音を立てた。
「ふざけるな……!」
声が低く震えた。
「その理屈で……お前らは……これから、エレナを捧げる気か! 何百どころか、何千、何万の命のためだとか言って。十六の女の子を悪役にして、罪を全部押しつけて、消そうって……そう言いたいのか!!」
「他に道があったと、お思いですか?」
セリオは、静かに問い返した。責めるのではなく、本当に訊ねるように。
「私も幼い頃は思いました。何故、あの子でなければならなかったのか、と。もっと別の道があったはずだ、とも。……ですが、考え抜いた末にたどり着いたのは、他に道はなかった、という事実でした。穢れは消えません。誰かが引き受けるしかない。引き受け手がいなければ、土地ごと、全員が死ぬのです」
「探せばあったはずだ! 穢れを、誰にも背負わせずに、散らす方法が!」
「では――その方法を、卿はご存じですか?」
俺は言葉に詰まった。
知らない。罪の分散だとか、そんな話をミリアから聞いた。
だが、それは過去に試して失敗した方法だと。条件が揃わなかったと。
今、ここで、それを語れるほど――俺は何もわかっていない。
「……ご存じないのでしょう」
セリオの声は、どこまでも穏やかだった。だからこそ残酷だった。
「『探せばある』と人は言います。けれど、探している間にも、人は死ぬ。だから教会は確実な方法を選ぶのです。一人の犠牲で、すべてを救う。それは冷酷ではありません。むしろ――いちばん優しい計算なのです」
「その『優しい計算』に――」
俺は奥歯を噛む。
「あんたたちは……エレナも入れるつもりなんだな?」
「ええ」
セリオは否定しなかった。澄んだ目で、まっすぐに俺を見た。
「卿は、妹君を救いたいのでしょう? その、たった一人を。お気持ちはわかります。私にも、あの少女がいましたから」
そして、彼は静かに問うた。
「ですが――その、たった一人を救うお優しさで。代わりに何万の人々が死ぬとしても。卿は、同じことが言えますか?」
俺は言葉に詰まった。
すぐに「言い返せ!」と頭の中で誰かが叫んだ。
「妹を救って何が悪い!」と。
「世界より妹を取るに決まってる!」と。
だが、「何万の死」という言葉が。
いつか、ミリアが見せた、あの災厄の断片が。崩れる街が、燃える人々が。俺の喉を塞いだ。
言い返せない。
即座には何も言い返せなかった。
その沈黙こそがセリオの一番欲しかった答えなのだと――俺にはわかってしまった。
「……お時間を頂きありがとうございました」
セリオは、また丁寧に頭を下げた。
「私は、あなたを憎んではいません。あなたの優しさを否定もしません。ただ、知っておいていただきたかった。世界には――優しさだけでは救えないものがあるのだと」
白い装束の背中が回廊の奥へ静かに遠ざかっていく。
俺は拳を握りしめたまま、しばらく、その場から動けなかった。
殴ればよかったのか。
だが――アイツを殴っても、アイツの抱える死者は生き返らない。
アイツの思想は折れない。
拳では届かない場所に――敵はいた。




