第27話『観察者でいられない』
「いやあ」
ノアの声が低くなった。いつもの軽い調子はどこにもなかった。
彼は書き換わった自分の記録魔法の像を食い入るように見つめ、それから懐から一冊の手帳を引き抜いた。
研究記録だ。彼が、この世界の違和感をコツコツと書き溜めてきた観察者のノートだった。
その頁を繰っていく、ノアの指が。
――すると、途中で止まった。
「……消えてる」
「何がだ?」
「僕が、先週、書いたはずの一節だ。茶会の警備配置を事前に控えておいたモノがある。給仕の人数、卓の位置、誰がどこを担当するか。僕は、確かに書いた。覚えてる、なのに――」
ノアが、その頁を俺に突きつけた。
白かった。
文字が消えているのではない。インクの滲んだ跡すらない。
最初から何も書かれていなかったかのように。
完全にまっさらだった。
「『最初から存在しなかった』ことにされてる」
ノアの声から温度が抜けていた。
「僕の観察を。僕の記録を。世界がなかったことにしようとしてる」
いつも飄々として何が起きても面白がっていた、あの男の顔から笑みが完全に消えていた。
代わりに、そこにあったのは。
静かな本物の怒りだった。
「観察者の記録に手を出すのは――」
ノアは手帳をぱたんと閉じた。
「――世界であっても、許されないね」
その一言を境にノアの口数がぱたりと減った。
彼は、もう軽口を叩かなかった。膝をつき、卓布の魔力痕を指でなぞり、宙に残った像の歪みを目だけで追っていく。狩りをする獣のように。
俺は、その横顔を見ていた。
こいつは、ずっと観察者だった。教材破損の時も。魔法暴走の時も。
一歩引いた場所から面白そうに現象を眺めて、軽口を叩いて、分析だけ置いていく。
当事者には、決してならなかった。
それが、今。
自分の記録を、自分の研究を、自分の存在の一部を世界に「なかったこと」にされて――。
初めて、コイツはこの盤面に自分の足で立っていた。
観察者じゃいられなくなったんだ。
悪いとは思った。だが、正直、心強かった。
この世界の構造を深く読める頭が、ようやく、こっちの側に本気で回ってくれた。
「……ふざけたことをする」
ノアが、ぼそりと呟いた。
それは、いつもの軽口とはまるで違う、地の底から這い出るような声だった。
「人の感情を膨らませて、罪を着せ、証言を書き換え、物証を捏造する。それだけでも十分、悪趣味だ。にも関わらず、それを記録した者の頁まで白紙に戻していく。証拠隠滅じゃない。――『そんな事実は最初からなかった』と世界に言い張らせる行為だ」
ノアは立ち上がった。
「レオン」
しばらくして、ノアが呼んだ。
「証拠を取り返そうとするのはやめだ。あいつらは――いや、これは何枚でも書き換えてくる。僕らが正しい証拠を出す度に、上から別の絵を塗り重ねてくる。証拠の奪い合いでは、僕らは勝てない」
「じゃあ、どうする?」
ノアは、にやりと笑った。ただし、その笑みはひどく冷たかった。
「書き換えってのはね、レオン。綺麗に跡を消せないものなんだよ。インクを上から塗り重ねれば、下のインクが僅かに滲む。記憶を書き換えれば、辻褄の合わない『さっきと違う』が必ず残る。――証拠そのものは書き換わった。なら、書き換えが起きた、その『痕跡』を暴けばいい」
ノアは卓布の毒の染みの縁を指さした。
「見ろ。この魔力痕。毒のものでも、エレナ嬢のものでもない。給仕のものでもない。第三の、誰の手のものでもない魔力が、この場の『記録』を、まるごと撫で直していった跡だ。そして、この紋様――」
俺は目を凝らした。
黒く変色した染みの縁に、薄く、極薄く、白銀の文様が浮かんでいた。
見覚えがあった。
あの演習場の回廊で祈っていた白い装束の人影。その胸元で陽を弾いていた銀の聖印。
あれと同じ意匠だった。
「――教会の聖印だ」
俺の声が自分でも嫌になるほど低くなった。
「ああ」ノアが頷いた。「これは、一人の魔術師が片手間にやれる規模じゃない。何十人もの記憶を、複数の物証を、僕の保護された記録までを寸分違わず同時に塗り替えた。これは――個人の魔法じゃない。もっと大きい。王国の骨組みに組み込まれた儀式術式だ」
ノアは立ち上がり、こちらを見た。
「そして、それを動かす聖印が教会のモノだとしたら。この茶番の脚本を書いてるのは――」
言わなくてもわかった。
エレナを悪役令嬢に仕立て上げようとする、顔のない手。
その正体の輪郭が。今、初めて薄く見えてきた。
「……ノア」
俺は声を落とした。
「証拠そのものは取り返せない。それは、わかった。だが、その『書き換えた痕跡』なら――今ここで見せられるか。連中が、エレナをこの場で裁いちまう前に」
ノアの目がすっと細くなった。
「……一発勝負だぞ。長くは保たない」
ノアは騒めく人垣の中央へツカツカと進み出た。よく通る声を張る。
「皆さま。判じ物を、ひとつ!」
貴族たちの視線が、胡散臭げに集まる。ノアは構わず倒れた茶器の上に手をかざした。
「炙れ」
短い一言。
淡い光が卓布を舐めた。
黒い染みの上に二重の像が滲み出る。書き換わった後の絵――エレナが小瓶を傾ける、あの偽の光景。その下から剥がれかけた壁紙の様に、別の絵、透けて浮かんだ。給仕の手。青い茶器。エレナの手は――どこにも伸びていない。
二枚の絵がグニャリと重なり、せめぎ合っていた。
「ご覧のとおりです」
ノアの声は静かだった。
「この場の『記録』は、ほんの数分の間に上から塗り直されている。給仕の証言も、ご婦人の記憶も、この物証も。全部、後から別の手で書き換えられた痕がこうして残っている。――どちらが本物か、僕には断言できません。――ですが、これだけは言える。これほど怪しい『証拠』で、一人のご令嬢を、この場で罪人と決めつけるのは、あまりにも早計だ」
ざわめきが、戸惑いに変わった。
「二重に……見えるわ」「では、どちらが本当なの?」――貴族たちが顔を見合わせる。確信が揺らいでいた。
よし。
俺が内心で拳を握った、その時だった。
二枚の絵のうち、本物のほう――給仕の手の方がすうっと薄れていく。
上から、また誰かに撫で消されるように。残ったのは、偽物の絵だけ。
エレナが小瓶を傾ける、あの光景だけがくっきりと居座った。
「……ちっ」
ノアが舌打ちした。
その額に玉の汗が浮いている。これ以上は保たない。
書き換えの力は俺たちが暴いた痕跡すら、その場で塗りつぶしにかかる。
それでも――ノアが見せた、あの一瞬の「二重」を貴族たちは見てしまった。
前のように、まるごと信じこむには、もう戻れない。
誰一人、エレナを、この場で罪人とは宣告しなかった。
勝ったわけじゃない。
証拠はまた偽物に塗り潰された。疑いの像も消えていない。
だが――今この瞬間、エレナを裁く根拠だけは確かに崩した。
時間を稼いだ。それが精一杯だった。
俺は人垣の中心で、尚も無数の視線に晒されているエレナを見た。
疑いの目が彼女に集まれば集まるほど。
その足元に薄くて黒い靄のようなモノが、ゆらりと湧き纏わりついていくのが見えた。エレナ自身は気付いていない。あの演習場で暴走したのと同じ黒い穢れ。それが疑いを養分にするように彼女へ集まっていく。
「気付いている」
ノアが先に言った。声を潜めて。
「あの穢れは、エレナ嬢から湧いてるんじゃない。逆だ。外から集められてる。あの子を『器』にしようとして、ね。……仮説だけど聞くかい?」
俺は黙って頷いた。
「この術式はね。王国中の『疑い』や『悪意』を、たった一人に押しつけてるんだ。一人が全部背負えば、ほかの全員が軽くなる。だから世界は、躍起になってエレナ嬢に罪を集める。――崩す手は、たぶん一つだけ。集めた罪を関わった全員に分けて背負い直させる――要は、〝罪の分散〟だ。ただし――」
ノアは、そこで言葉を切った。難しい顔で。
「――分けるには条件がある。全員が自分の罪を自分のものだと認めること。その自覚がいるんだ。一人でも『自分は悪くない、あいつのせいだ』と逃げれば、罪は、また一人に流れ込む。……理屈の上ではそれしかない。現実にできるかどうかは、僕にもわからないけどね」
――罪を分ける。
――全員が自覚する。
言葉にすれば簡単だ。
だが、この茶会一つで群衆、こぞって人を疑うこの世界で。そんなことができるのか。
答えは出なかった。
ただ、俺の腕の中にエレナを引き寄せた時。
彼女の足元の黒い靄がすうっと薄れて消えたことだけは――確かだった。




