第26話『書き換わる記憶』
「ノア!」
俺は人垣の外で退屈そうに薔薇を眺めていた魔術師を呼んだ。
「いるんだろう。記録魔法、回してたか?」
ノア・リンドブルムがひらりと手を上げた。
「もちろんさ。キミの妹君が動き出した時点で、こういう茶番の予感はしていたからね。僕の記録には、『誰がいつ、どの茶器に触れたか』――全部残ってる」
ノアが指を軽く鳴らした。
「――映せ」
短い一言。
空間に淡い光が走り、半透明の像が立ち上がった。
少し前におけるこの天幕の光景――給仕が青い茶器を運び、貴婦人がそれを倒す。エレナの手は、どこにも伸びていない。証拠は明白だった。
「ほら。ご覧のとおり。エレナ・アルヴァレス嬢の手は――」
ノアの言葉が途切れた。
像の中の給仕の手が、ぐにゃりと歪んだ。
まるで、濡れた絵の具を誰かが指でなぞったように。映像が内側から書き換わっていく。
給仕の姿が薄れ。代わりに、その場所に別の人影が立ち上がった。
水色のドレス。見覚えのある立ち姿。
――エレナだった。
像の中のエレナが青い縁の茶器にすっと手を伸ばし、小さな瓶から何かを垂らした。
ありもしない光景が。
たった今、現実だったかのように像の中に刻まれていた。
「……はっ?」
俺の網膜の裏で四角い枠がちらりと瞬いた。
半透明の無機質な文字盤。前世で妹が夢中で見ていた、あの携帯ゲームの画面のような。
『毒殺未遂イベント 成立』
『証拠 調整中――』
次の瞬間には、もう消えていた。
誰も気付いていない。エレナも、ミリアも。
ただ、俺の目の奥にだけ、その文字がじりじりと焼きついた。
「皆さま、ご覧になりましたか!」
声が上がった。
さっき、エレナが「触れていない」と証言したことをはっきり認めていた、あの給仕だった。
その男が、今、震えながら別のことを言っていた。
「思い出しました。私は、確かに見たのです。エレナ様が青い茶器に手を伸ばされるのを。小瓶をお持ちでした。……ああ、何故、すぐに思い出せなかったのか」
男の顔には嘘をついている気配がまるでなかった。
心の底から、そう『思い出して』いた。さっきまで、全く逆の事を確信を持って証言していたことなど頭から消え失せていた。
ぞわりと鳥肌が立った。
記憶が。証拠が。複数の人間の頭の中身が。同時に書き換わっていく。
そして、決定的な一撃が来た。
「これは……エレナ様のモノでは……?」
倒れた茶器のすぐそば。卓布の上に。
小さなガラスの小瓶が転がっていた。
さっきまで、そこには何もなかった。
俺も、エレナも、ノアも、ずっとあの卓を見ていた。あんなものはなかった。
なのに――今、そこにある。
拾い上げられたその瓶には見間違えようのない、アルヴァレス公爵家の紋章が刻まれていた。
「……そんな」
エレナの唇から掠れた声が漏れた。
彼女は、その小瓶を信じられないものを見るように見つめていた。
「わたくし……そんなもの、持ってきておりません! 触れてもおりません! 確かに、わたくしは――」
「いいえ、エレナ様」
遮ったのは、さっき茶器を倒した、あの年配の貴婦人だった。
彼女もまた、いつの間にか別の記憶を抱えていた。
「わたくし、思い出しましたわ! あなたが卓のそばで袖から何かをお出しになるのを! わたくし、それで驚いてよろめいたのです。そう、そうですわ。間違いありません!」
違う。俺は、この目で見ていた。
この貴婦人は、自分の足で勝手によろめいた。エレナの袖から何も出ていない。
なのに――彼女は心の底から、そう『思い出して』いる。
二人目だ。一人目の給仕に続いて、二人目の証人の記憶が書き換わった。
エレナの顔から血の気が引いていく。自分の記憶が、自分の確信が、周りの全員から、悉く否定されていく。
それは罪を着せられる事よりも、もっと根の深い恐怖だ。
世界そのものに「お前は間違っている」と囁かれているような。
「お兄様……わたくし、おかしくなったのでしょうか……? わたくしの覚えていることが間違っているのでしょうか……?」
「違う」
俺は、すぐにエレナの肩をつかんだ。
「お前は、何も間違ってない。書き換えられてるのはお前の記憶じゃない。世界のほうだ。お前は正しい。俺が保証する」
その言葉にエレナが縋るように、こくりと頷いた。
「……違います」
小さいが確かな声だった。
ミリアだった。胸の前で両手を固く握りしめている。その手は震えていた。
彼女自身、記憶を何かに引っぱられているのが見ていてわかった。
さっき見たはずの光景が輪郭からぼやけていく。
給仕だったか、エレナ様だったか――確かなはずのものが指の間からこぼれ落ちていく。
それでも、ミリアは――ひとつだけ手放さなかった。
「他のことは……正直、自信がなくなってきました。何が本当だったのか、怖いくらい、わからなくなる。……でも、これだけは。エレナ様は、私に『飲むな』とおっしゃったんです。わたしを害そうとした人が、どうして、そんなことを言うんですか」
完璧な反論じゃない。証拠もない。この子の記憶も半分呑まれかけている。
それでも、ミリアは、たった一つ残った真実にしがみついて声を上げた。
誰もすぐには答えられなかった。
俺だけは――この子の記憶が正しいと知っている。
だが、それを、どう証明する。
証人が片端から寝返っていく。物証が勝手に湧いてくる。
まともに戦って勝てる相手じゃない。




