第25話『私(わたくし)にも動かせて』
王宮へ向かう馬車の中でエレナは招待状を膝の上に置いていた。
白百合の封蝋。王妃主催の茶会への招待。差出人の格は申し分ない。だが、その一枚の紙をエレナはもう〝ただの社交の誘い〟としては見ていなかった。
俺が――すべてを話したからだ。
お前は原作で『悪役令嬢』として断罪され、追放され、そして死ぬ。
その運命を彼女はもう知っている。
そして、この茶会が、その坂道の最初の一段になる事件の舞台だということも。
向かいに座る妹の横顔は青ざめてはいたが、震えてはいなかった。
「お兄様」
エレナが窓の外を見たまま口を開いた。
「正直……怖くないと言えば嘘になりますわ。これから向かう先で、わたくしは、毒を盛った悪役令嬢に仕立てられるのでしょう。お話を聞いてからずっと、夜もよく眠れません」
「エレナ……」
「ですが」
エレナはこちらを向いた。その瞳には恐怖よりも強い光が宿っていた。
「逃げることはいたしません。だって、逃げたところで、この運命はわたくしを追いかけてくるのでしょう? なら、わたくしは、わたくしの足で立って迎え撃ちます。お兄様の後ろに隠れて震えているだけの妹では――もういたくないのです」
俺は何も言えなかった。
ほんの少し前まで、こいつは俺に守られることを当然だと思っていた。今は違う。
馬車の揺れに耐えながら、自分の運命に自分の意志で向き合おうとしている。
頼もしい、と思う。
だが、その頼もしさが俺の胸をぎゅっと締めつけた。守られる側でいてくれれば、どれほど安心できるか。それを口に出しかけて、俺は飲み込んだ。
――「わたくしの人生を、わたくし抜きで決めないでください」
あの馬車で刺さった言葉を忘れたわけじゃない。
「わかってる」
俺は、ようやく、それだけ言った。
「お前を信じる。だから――お前も、いざとなったら俺を使え。兄ってのは、そういう時の為にいるんだ」
エレナが、ふっと笑った。
「ええ。遠慮なく使わせていただきますわ」
◇
王宮の庭園に白い天幕がいくつも張られていた。
磨き上げられた銀器。咲き誇る薔薇。注がれる紅茶の湯気の立ち方ひとつにまで行儀があった。学園の生徒のうち、家格の高い者だけが招かれる、王妃主催の茶会。表向きは〝親睦のためのただの優雅な午後〟だ。
だが――俺は、この光景を知っている。
前世で妹が何度も語ってくれた。原作の中盤の山場。
エレナ・アルヴァレスが聖女候補ミリア・フォルテの紅茶に毒を盛ったとされ、決定的に『悪役令嬢』へと転落していく――そのきっかけになる毒殺未遂事件。
起きるなら、今日。この場所だ。
俺は、もう頭の中で動線を引いていた。ミリアの席を給仕から遠い端へ。茶器が運ばれる経路は、すべて目で追う。怪しい手が伸びれば、すぐに割って入る。エレナには、なるべく天幕の柱際に立っていてもらって、誰の視界にも――
「お兄様」
すぐ隣で、エレナがそっと俺の袖を引いた。
俺の思考を、そのひと声が断ち切った。
「お顔に書いてありますわ。これから何をどう先回りなさるか、頭の中で、ぜんぶ並べておられるのでしょう?」
――ばれていた。
俺は口をつぐんだ。図星だったからだ。
「お兄様。今度は――」
エレナは、まっすぐに俺を見上げた。声は震えていなかった。
あの馬車の中で、わたくし抜きで決めないで、と言った時の、あの静かな強さがそこにあった。
「わたくしにも動かせてください」
俺は、すぐには頷けなかった。
頷けば、こいつを危険のど真ん中へ歩かせることになる。
原作で、悪役令嬢が転落していく舞台だ。
守りたい。柱の陰に隠して、何も見せず、何も触れさせず、終わるまで抱えていたい。
その衝動が喉まで出かかった。
――だが。
守ったつもりで追い詰めていた。あの演習場で。あの馬車で。俺は、それをもう知っている。
「……何をするつもりだ?」
やっと、それだけ聞けた。命令ではなく、問いとして。それだけのことが、ひどく難しかった。
エレナの目が、ふっと和らいだ。
「わたくしは、ミリア様を見ています。ずっと。あの方が何を口になさるか、誰があの方の周りを通るか。令嬢の作法というのは、人の手元を見る訓練でもありますの。お兄様が剣を握る前に、わたくしの目で気付ける事があるはずです」
頼もしい、と思った。同時に胃の底が冷えた。
この子は自分から火の中へ歩いていこうとしている。
守られる側でいてくれれば、どれほど楽か。
それでも、俺は――。
「……わかった」
拳を握りしめて頷いた。
「お前の目で見てくれ。俺は、お前が見落としたところを拾う。二人でやろう」
エレナが微笑んだ。完璧な令嬢の微笑みではなく、ほんの少しだけ子どもっぽい嬉しそうな笑みだった。
◇
茶会が始まった。
エレナは、令嬢らしい所作で、それでいて、休みなく、視線を働かせていた。ミリアの席。給仕の足の運び。誰が、どの卓の脇を通ったか。
俺は、その横で、別の角度から場を見た。二人で、網を張るように。
やがて――エレナの扇が、ぴたりと、止まった。
「お兄様」
囁くような声だった。
「給仕が、今、ミリア様の卓を二度通りました。一度目に、白い縁の茶器を置いて。二度目に、それを下げて、青い縁のものと取り替えました。……作法ではありえません。一度供したものを、客の前で無言で下げて替えるなど」
俺は視線だけでミリアの卓を追った。
言われて、ようやく見えた。青い縁の新しい茶器。湯気の立ち方が、ほんの少しよどんでいる。
エレナの観察が無ければ、俺だけなら給仕の所作の不自然さに気付けなかった。
「――ミリア様のところへ参ります」
エレナは、もう立ち上がっていた。
俺が止める間もなかった。
◇
エレナは、自然な足取りでミリアの卓へ歩み寄った。
「久方ぶりですわね」と当たり障りのない挨拶を交わす。傍目には、ただの令嬢同士の社交だ。
だが、その合間にエレナは声をぐっと低くした。
「ミリア様。その青い縁のお茶には――どうか、口をおつけにならないで」
ミリアの表情が、一瞬、固まった。
それから、ああ、という奇妙に納得した顔をした。何度も見た光景をまた見てしまった――そんな、ひどく疲れた顔だった。
「……やっぱり、今日、なんですね」
声が小さく震えていた。
「何度巡っても。場所が変わっても。……この事件だけは、必ず起きるんです。わたしが、どんなに気をつけても」
その言葉の意味を問い返す暇はなかった。ミリアは、すぐに首を振って表情を作り直した。
そして、そっと茶器から手を引いた。
「エレナ様。教えてくださってありがとうございます。私……飲みません。今日は、絶対に」
よし、と俺は内心で拳を握った。
原作では、ミリアはこの茶を飲んで倒れる。そして、毒を盛ったのはエレナだと糾弾される。
だが、今、ミリアの手は茶器から離れた。エレナの言葉で。
飲まなければ、毒殺は成立しない。先回りは間に合った。
――そう思った瞬間だった。
ふと天幕の柱の根元――石畳に刻まれた白百合の文様が、ほんの一瞬、淡く明るんだ気がした。
――気のせいか。瞬きをすると、もう、ただの古い彫りに戻っている。
だが、その直後だった。
ミリアのすぐ後ろを通りかかった、年配の貴婦人が不意によろめいた。
「あら、ごめんなさい――」
伸ばした手が、青い縁の茶器を引っかけた。
かしゃん、と軽い音を立てて、茶器が倒れる。
卓布に紅茶がこぼれ広がった。その染みの縁のところが。
じわり、と黒く変色していった。
「……これは」
貴婦人が青ざめた。
誰かが悲鳴を上げた。
「毒よ!」
その一言が引き金だった。
卓布を変色させるほどの毒。それが、ミリア・フォルテの茶器に盛られていた。
飲んでいれば、無事では済まなかった。ミリアは飲まなかった。エレナが止めたから。
被害は出なかった。なのに――事件だけが起きてしまった。
「毒ですって!」「聖女様のお茶に」「いったい、誰が、こんな――」
ざわめきが、波のように天幕を満たしていく。優雅だった午後が、一瞬で剣呑な空気に塗り替わる。
そして、その波が向かう先は――。
「……エレナ様。貴女、今、ミリア様の卓にいらしたわね」
「ずっと、あの席を見ていらした。茶会の最初から」
「茶器のことを、何か囁いていらしたでしょう。わたくし、見ましたわ」
視線が、一斉にエレナへ突き刺さった。
俺は背筋がぞっと冷えた。
飲ませまいと近付いた。「飲むな」と囁いた。そのミリアを守るための行動の、ひとつひとつが――今、エレナが毒を盛った証拠として組み上がっていく。
善意が罪に変換されていく。
「待て!」
俺は人垣を割って前へ出た。
「妹は毒など盛っていない。むしろ、飲むなと止めたんだ。ミリア・フォルテ本人が証言する」
ミリアがこくこくと頷いた。
「は、はい。エレナ様は、私を守って――」
だが、群衆の疑念は止まらない。止まるどころか濃くなっていく。
まるで、誰かに膨らまされたみたいに。
この感じを知っている――クラリッサの時と同じだ。
一人の人間から、こんなに早く、こんなに均一な疑いが湧くものか。
そのとき。
ざわめきの真ん中で、エレナが静かに口を開いた。
「皆さま」
令嬢の毅然とした声だった。震えを奥歯で噛み殺した声だった。
「わたくしは、その茶器に触れておりません」
一瞬、場が静まった。
「触れた者を、わたくしは見ています。先程、青い縁の茶器を運んだ給仕の方。そして、それを倒した、そちらのご婦人。この二人だけです。わたくしの手は、ただの一度も、あの茶器に触れておりません。――どうかお調べください。わたくしを、ではなく、あの茶器を」
俺は思わず、エレナを見た。
泣いて、俺の後ろに隠れる子では、もうなかった。
自分の無実を、自分の言葉で、自分の足で立って宣言していた。
いいぞ。
それでいい。
お前は――お前で戦え。俺は――それを証拠で支える。




