第24話『王宮からの招待状』
ミリアが両手で口を覆った。
その目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「……それ、です」
「えっ?」
彼女は震える声で言った。
「私が……ずっと、エレナ様に言って欲しかった言葉。何度繰り返しても、一度も聞けなかった言葉。エレナ様は、いつも断罪される時、こうおっしゃっていました。『わたくしは何もしていない』『これは冤罪だ』って……でも、それだけだったんです」
ミリアは、涙を拭った。
「自分の弱さを認めながら罪は否定する。そんな風におっしゃったエレナ様は……今回が初めて、です」
わたくしは、不思議な気持ちで、その言葉を聞いていた。
幾度も繰り返された世界で、一度も言えなかった言葉を。
今、わたくしは、それを言えたのだ。
何故だろう。
すぐに、その理由に思い当たった。
――お兄様だ。
守られ、囲い込まれ、何も知らされず。
けれど、ひとつだけ、お兄様が、わたくしに遺したものがあった。
それは、お兄様の剥き出しの不器用な後悔だった。
あの答えられなかった沈黙が。血まみれの背中が。
「来ないでくれ」とは決して言わなかった、あの距離の取り方が。
わたくしに、考える時間をくれたのだ。
初めて、わたくし自身に、わたくしの事を考えさせてくれたのだ。
――皮肉なことですわね、お兄様。
あなたが隠しごとを辞めた、その瞬間に。
わたくしは、ようやく、わたくしになれた。
「ミリア様」
わたくしは、ふと、別の事を口にしていた。
「ひとつ、お訊きしてもよろしいかしら……不躾な問いですけれど」
「はい。なんでしょう」
「ユリウス殿下は。あなたに、お心を寄せていらっしゃいますね?」
ミリアの頬が赤くなり、それから、申し訳なさそうに伏せられた。
「……そういうつもりは。私にはないのです。でも……殿下が私に優しくしてくださるのは……本当です」
ああ、と。
わたくしは、自分の胸の内をゆっくりと覗き込んだ。
不思議だった。
婚約者の心が別の娘へ傾いている。それを、はっきりと突きつけられて。
なのに――胸が、思っていたほど痛まないのだ。
わたくしは、ユリウス殿下を愛していたのだろうか。
あの方の笑顔を。声を。指先を。
――恋しいと思ったことがあっただろうか。
――いいえ。
わたくしがしがみついていたのは――。
『王太子の婚約者として皆に認められる自分(わたくし)』だった。
『これだけ努力すれば、いつか必ず報われるはずの自分(わたくし)』だった。
殿下のお心ではなく、殿下の隣という――その席に。わたくしは縋っていた。
努力は報われるはず。
完璧であれば愛されるはず。
その子どものような信仰に――わたくしは、必死にしがみついていた。
殿下のお心が離れていくのが怖かったのではない。
その信仰が崩れるのが怖かったのだ。
カラクリがわかってしまった。
けれど――わかったところで、喉の奥が熱くなった。これまで捧げてきた歳月が、まるごと的外れだったのだと突きつけられて。恥ずかしさと、悔しさと、今更どうにもならない未練がぐちゃぐちゃに溶け合って、胸を塞いだ。膝の上で扇を握る指に知らず力がこもる。
けれど、と、わたくしは思う。
まだ捨てられない。今すぐには。
その席に、その信仰に――これほど長く寄りかかってきたのだ。
手放すには、もう少しだけ時間がいる。
でも。
いつか必ず。
「……ミリア様」
わたくしは立ち上がり、ミリアに手を差し出した。
令嬢として、ではなく。ただのひとりの少女として。
「わたくしたちは、多分、友人にはなれませんわ。あなたに嫉妬した過去は消えません。あなたが、わたくしの死を何度も見過ごしたことも」
ミリアの肩がこわばった。
「ですが――」
わたくしは続けた。
「もう、わたくしたちを〝悪役令嬢〟と〝聖女〟に分けさせはしません。あなたが世界を救うために、わたくしを殺す物語も。わたくしがあなたを妬んで、毒を盛る物語も。――どちらもまっぴらですわ」
ミリアは、わたくしの手を見た。
それから、恐る恐る、その手を取った。
冷たい、けれど、確かに生きている手だった。
「……はい」
彼女は、涙の残る顔で初めて笑った。
聖女の微笑みではなく。原作ヒロインの笑顔でもなく。
ただ、長い間、ひとりで泣いてきた少女が、やっと隣に誰かがいることを知った――その頼りない笑顔だった。
「はい、エレナ様」
それでも、繋いだ手のひらの奥で、まだ何かが固く強ばっているのを、わたくしは感じていた。
許すと決めたわけではない。忘れられるわけでもない。
ただ、今だけは、この手を離さずにいよう――そう思える、それだけの距離だった。
カラーガラスの光が、わたくしたち二人の繋いだ手の上に青と金の模様を静かに落としていた。
◇
エレナが、屋敷に戻ってきたのは日が暮れてからだった。
俺は廊下の窓辺で杖をついて、それを見ていた。
声はかけなかった。かけられなかった、と言うほうが正しい。
あの書斎以来、エレナは俺と口をきいていない。
薬の時間に碗を差し出すこともしなくなった。世話は使用人に任せるようになった。
当然だ。俺がそうさせたのだ。
だが、馬車から降りてきたエレナの背筋は。
書斎を出ていった時よりもまっすぐに伸びていた。
俯いて、震えていた、あの令嬢ではなかった。
何かを決めてきた者の背中だった。
……何があったのか。
訊きたかった。けれど、訊く資格は――今の俺にはない。
その夜のことだ。
屋敷の正面玄関の重い扉を叩く音がして。
家令が、銀の盆に一通の書状を載せて運んできた。
「若様。王宮よりお使いの者が」
その封蝋を見て、俺は息を止めた。
王家の紋章。
そして、その下に押された、もうひとつの印。
茶会の招待状だ。
王宮で催される、ささやかな茶会への。エレナとその兄である俺への正式な招き。
(……ささやか、なものか)
俺の記憶の、最も嫌な場所が軋んだ。
原作で。この王宮の茶会で。
エレナは、ミリアの茶に毒を盛ったとされる。
毒殺未遂イベント。
教材破損、魔法暴走に続く、断罪への次の段。
俺が何としても踏ませないと誓った、その階段の――またひとつ。
頭が勝手に動き出す。今度こそ先回りして、全部潰してやる。
給仕の動線。茶器の数。毒の出処。
エレナを危ない席から遠ざけて、ミリア嬢との距離も――
そこまで考えて、俺は自分の手が、また同じ動きをしようとしていることに気付いた。
守る。囲う。先回りする。エレナの知らないところで、ぜんぶ片づける。
――その守り方は、もうできない。
あの書斎で俺はそれを手放した。手放して当然のことをした。
階下で足音がした。
エレナが階段を降りてくる。
盆の上の、その書状に彼女の視線が留まった。
目が合った。
書斎以来、初めて。
エレナは、何も言わなかった。
俺も言わなかった。
二人の間には、まだ、あの抉れた距離が横たわっていた。
ただ――エレナの瞳は、もう怯えてはいなかった。
招待状の封蝋をまっすぐに見据えていた。
来るなら、来い、と。そう言わんばかりに。
そして、エレナは家令の盆から、その招待状を自分の手で取り上げた。兄に渡されるのを待つでも、許しを乞うでもなく。封蝋に指を添え、しばらくそれを見つめてから、ゆっくりと顔を上げる。背筋を伸ばしたその立ち姿に、もう守られるのを待つだけの娘の頼りなさはどこにもなかった。
俺は思った。
この子は、もう何も知らずに守られるだけの妹ではない。
それは、多分、いいことなのだろう。俺が、ずっと間違えてきたことの答えなのだろう。
なのに、なぜだろう。
胸の奥がざわついて仕方がなかった。
次の舞台は、もう整えられている。
そして今度は――その舞台に何が仕掛けられているかを知っているのは。
俺、ひとりだけではない。




