第23話『私(わたくし)の罪は』
わたくしは、ひとりで礼拝堂にいた。
学園の奥まった場所にある古い礼拝堂。
カラーガラスから落ちる光が、石の床に青と金の模様を静かに描いている。
ここなら誰も来ない。誰の視線も、噂も、台本も届かない。
そう思って、わたくしは長椅子の隅に、ただ座っていた。
お兄様の言葉が頭の中で何度も回っていた。
『悪役令嬢』。
『断罪』。
『追放』。
――そして、『死』。
わたくしは死ぬ。
物語の中で、そう決められている。妬み、毒を盛り、罪人となって、捨てられて。
「馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばせれば、どんなにかよかった。
けれど、笑えなかった。何故なら、わたくしには思い当たる事があったから。
ミリア・フォルテ。
平民の出でありながら、誰からも好かれる、あの娘。
わたくしは、彼女が嫌いだった。
努力もせず、自然体で、人の心を掴んでいく彼女が。わたくしが、何年も歯を食いしばって積み上げてきたものを、いとも簡単に飛び越えていくように見える彼女が。
妬ましかった。
心のどこかで、「平民の分際で」と見下した。
その醜い感情を。わたくしは、確かに持っていた。
だから、怖かった。
もしかしたら、本当に、わたくしは――。
いつか、あの娘に非道いことをするのではないか。物語の通りに。
そして――それが、何よりも許せなかった。
お兄様が、わたくしを何から守っていたのか。未来から。世界から。それとも、わたくし自身から。
あの問いを、わたくしはお兄様に突きつけた。
けれど、本当は――わたくし自身が、自分を信じきれていなかった。
お兄様の沈黙が〝答え〟だったように。
わたくしの、この胸の奥に蹲る醜さこそが〝答え〟なのではないか。
妬み、見下し、傲慢――それらは、確かに、わたくしのモノだ。
ならば、物語がそれを育てて、悪役令嬢に仕立て上げるのも――当然の報いなのではないか。
そう思うたび、足元の石畳がぐらりと傾いだ。
その時――礼拝堂の扉が軋んだ音を立てて開いた。
「……エレナ、様?」
光を背に立っていたのは。
今、最も会いたくなかった、その人だった。
ミリア・フォルテ。
わたくしは、咄嗟に立ち上がった。扇を握りしめて。
令嬢らしい毅然とした表情を作ろうとした。けれど、上手くいかなかった。
「……ご機嫌よう、ミリア様。礼拝のお邪魔でしたら、わたくしが――」
「いえ」
ミリアが首を振った。
「私は、エレナ様を探していたんです」
彼女は、扉を後ろ手に閉めた。
その仕草に見覚えがあった。あの晩、お兄様の病室に、ひとりで現れたという、その人。
「……お話がおありなのですか?」
わたくしは、扇を握る手に力を込めた。
「ミリア様。――先に申し上げておきますわ」
声が震えないように。気高く。アルヴァレスの娘らしく。
「わたくしは、あなたが好きではありません。ずっと、そうでした。あなたを見る度、胸の奥がざわつきました。それを隠せていたとは思っておりません」
ミリアの顔が、ほんの少し強ばった。
けれど、彼女は目を逸らさなかった。
「……知っています」
「ご存じだったのですか?」
「はい。エレナ様が、私を、よく思っていらっしゃらないことは……ずっと」
ミリアは、長椅子のわたくしから少し離れた場所に、おずおずと腰を下ろした。
平民らしい、やや硬い貴族言葉で。けれど、まっすぐに。
「でも、私……エレナ様を嫌いだったわけじゃないんです」
「……嘘をおっしゃい!」
わたくしは、思わず、声を荒げた。
「嫌われている相手を嫌いではない、ですって? そんな、聖女様のような綺麗事を――」
「嘘じゃありません!」
ミリアが立ち上がった。
いつもの、人好きのする笑顔はどこにもなかった。
ただ、必死な十六の少女の顔がそこにあった。
「私は……ずっと、エレナ様のことを知っていました。あなたが、どんなに努力家か。どんなに、一人で頑張っていたか。誰も見ていないところで、王太子妃にふさわしくあろうと、どれだけ……自分を律していたか。全部……全部、知っていたんです……!」
わたくしは、息を呑んだ。
「な、何故……あなたがそんなことを……」
ミリアの肩が震えた。
固く握りしめた両手の関節が白く浮いていた。
「……私は」
彼女は絞り出すように言った。
「私は、この世界を――何度も見てきました」
カラーガラスの光が、彼女の青ざめた頬を青く染めた。
「何度もここに来ました。何度も学園に入って。何度もエレナ様に出会って。その度に――エレナ様は断罪されて、いなくなって……私が聖女になって、世界を救うんです」
わたくしは、言葉を失った。
何度も。
お兄様が別の世界の記憶を持っているように。
この娘もまた、この世界の繰り返しを知っている。
わたくしの死を。何度も。
わたくしは、改めてミリアを見た。
明るくて、誰からも好かれる聖女候補。
けれど、こうして近くで見る彼女の顔には、十六の少女にはあまりにそぐわない深い疲れが沈んでいた。笑う癖だけが残った口元。その奥で、とうに笑うことを諦めてしまったような昏い瞳。
わたくしは、たった一度、自分の結末を聞かされただけで足元が崩れた。
この娘は、それを――いったい、何度、見送ってきたのだろう。
「私、最初の頃は――」
ミリアの声がほどけていく。
「思っていたんです。エレナ様は、悪い人なんだって。だって、私をいじめるから。毒を盛るから。だから、断罪されても仕方ないんだって……そう、思おうとしていました」
彼女は首を振った。
「でも、何度も繰り返すうちにわかってしまったんです。エレナ様は、自然に悪い人になるんじゃない。何かに追い詰められて、周りに悪い人だと決めつけられて……そうやって、少しずつ、本当にそういう人にさせられていくんだって」
わたくしの指先が冷たくなった。
「だから、私……一度だけやってみたことがあるんです」
ミリアの瞳が、わたくしを見た。
涙をこらえて。
「――エレナ様を救おうとしたことが」
礼拝堂が静まり返った。
「あなたを断罪させないで、庇って、あなたの手を握って。――これで、あなたは死なずに済む。そう思いました……でも」
彼女の声が途切れた。
「……空が裂けたんです」
その瞳の奥に、わたくしの知らない何かが沈んでいた。
見てはならないものを見てしまった人の目だった。
「黒い灰が降りました。城の外で村が燃えて……私がどれだけ光を集めても足りなかった……」
「……やめて」
わたくしは、無意識に呟いていた。
聞きたくない、と思った。けれど、わたくしのためにミリアが何を見てきたのか。
そこから目を逸らしてはいけない気がして、わたくしは胸の奥が鈍く痛むのを堪えた。
「あなたを助けたら――世界が滅びたんです」
ミリアは言った。
とうとう、涙が頬を伝った。
「だから、私……怖かったんです。あなたを犠牲にしたくはなかった。本当です。でも……それ以上に世界が怖かった。たくさんの人が死ぬのが怖かった。だから、私は……あなたが断罪されるのを。何度も、何度も……見て見ぬふりをしました……」
わたくしは、立っていることができなかった。
長椅子に座り込む。
この娘は――わたくしが、ただ妬んでいた、この娘は。
わたくしの何倍も、長い時間を、ひとりで、この絶望を抱えてきたのだ。
〝わたくしを救いたい〟と思いながら。〝救えば世界が滅ぶ〟と知りながら。
女同士のくだらない嫉妬。
そんなものは、もう、どこにもなかった。
ただ――同じ運命の底に投げ込まれた、二人の少女がいるだけだった。
「……ミリア様」
口を開いた。
「わたくしは……あなたに嫉妬しました」
言わなければならない、と思った。
飾らずに。気高さで隠さずに。
「平民だから、と見下したこともありました。何度も。心の中で、あなたを貶めました。それは、わたくしの弱さです。傲慢です。否定はいたしません」
ミリアの濡れた瞳を見た。
「けれど――」
声が震えた。
それでも、わたくしは言い切った。
「あなたを――あなたを殺したいと思ったことはありません。一度も。毒を盛ろうなどと考えたことも、ありません。――それは、断じて、わたくしのものではないのです」
ミリアが息を呑んだ。
「……エレナ様」
「考えていたのです」
続けた。胸の奥から湧き上がってくるモノを言葉にしていった。
「お兄様から全てを聞いて。わたくしは、自分が汚らわしいモノのように思えました。妬みも、傲慢も、確かに、わたくしの中にあるのですもの。だから……物語が、わたくしを悪役にするのも当然なのだと。そう思いかけました」
扇を握りしめる。
「でも――違いますわね」
顔を上げた。
「〝妬むこと〟と〝毒を盛ること〟は違う。〝傲慢であること〟と〝人を殺すこと〟は違う。〝弱いこと〟と〝罪人であること〟は違う。……わたくしは、欠点だらけの令嬢です。けれど、〝欠点があること〟と〝世界中の罪を背負わされること〟は――まったく別のことですわ」
カラーガラスの光が、わたくしの手の上で揺れた。
「わたくしの弱さは、わたくしのもの。わたくしの傲慢は、わたくしのもの。わたくしの嫉妬も、わたくしのもの。――だから」
わたくしは言った。
生まれて初めて、誰の許しも、誰の承認も、求めずに。
「わたくしの罪は――わたくしが決めます」




