第22話『何から守っていたの?』
歯車が決定的に噛み合わなくなったのは――それから三日後のことだ。
俺がようやく寝台を出て、杖をつきながら廊下を歩けるようになった、その日。
書斎の前を通りかかると、扉の隙間から声が漏れていた。
「――では、訊き方を変えようか」
軽い、けれど、どこか掴みどころのない声。
ノア・リンドブルムだ。学園の天才魔術師。事件の度に遠くから状況を眺めている、あの男。
見舞いに来たのか。
だが――相手は、俺じゃなかった。
「エレナ嬢。君は不思議に思ったことはないかい?」
俺は、思わず足を止めた。
「教材が破られた時も、今度の魔法暴走の時も。――何故、誰も彼もがあんなに早く、まるで最初から答えを知っていたみたいに君を疑ったのか」
「それは……わたくしが王太子殿下の婚約者で、目立つ立場だから……」
エレナの硬い声。
「うん、そういう説明もできる。できるんだけどね」
ノアの声には、いつもの軽さがあった。だが、その奥に剃刀の薄刃のような何かが混じっていた。
「僕は記録を取る魔術師だ。人の反応の速さも記録する。あの疑いの早さは、偏見にしては揃いすぎている。誰かが予め台本を配っていたみたいにね」
「……台本」
「そう。――誰かが、君にだけ最初から決まった役目を押しつけようとしているとしたら」
俺は、扉を開けていた。
「ノア」
俺の声に書斎の中の二人が振り返った。
ノアは悪びれもせず肩をすくめた。その一方で、エレナは蒼白だった。
「やあ、レオン。起きて歩けるようになったのか。丈夫だなあ、君は」
「妹に何を吹き込んでる」
声が低くなった。自分でもわかるぐらいに。
「吹き込む? まさか! 僕は、ただ観測した事実を並べただけだよ。解釈は本人に任せる主義でね」
ノアはひらりと立ち上がった。
「でも、ひとつだけ言わせてもらうと。レオン。君が必死に伏せている『何か』を一番知る権利があるのは、多分、僕でも、君でもない」
彼はエレナをちらりと見た。
「それを背負わされる本人だ。――じゃあ、お大事に」
軽い足取りで、ノアは出ていった。
書斎には、俺とエレナだけが残された。
沈黙が重かった。
「……エレナ。あいつの言う事は気にするな」
俺は出来るだけ穏やかに言った。
「ノアは頭はいいが……人を引っかき回すのが趣味みたいな男だ。学者ってのは、ああいう――」
「お兄様」
エレナが遮った。
いつもの令嬢らしい柔らかな遮り方ではなかった。
「わたくしは、どういう役どころ……なのですか?」
俺は言葉に詰まった。
「役どころも、何も――」
「ミリア様は、何故、暴走の瞬間を知っていたかのように動けたのですか?」
ひとつ、ひとつ。
エレナが積み上げてきた違和感を口に出していく。
「教材の時も。魔法暴走の時も。何故、皆、あんなに早くわたくしを疑ったのですか? 何故、お兄様は、わたくしの試験順や班分けや立ち位置まで、まるで何が起こるかをご存じだったかの様に先回りなさったのですか?」
エレナは止まらなかった。
「ミリア様が人目を忍んで、お兄様を訪ねた。ノア様は、誰かが、わたくしにだけ決まった役目を押しつけようとしている、とおっしゃった。皆が皆、わたくしの行く末を――まるで、もう決まりきった台本でも読むかのように扱っている」
彼女は、一歩、踏み込んだ。
「わたくし――馬鹿ではありませんのよ、お兄様。バラバラに散らばっていた違和感を、ひとつの卓の上に並べてみたのです。そうしたら――その真ん中にぽっかりと穴が空いておりました。誰もが知っていて、わたくしだけが知らされていない。何か大きなモノの形に」
「それは、お前を守るために――」
「何から!」
令嬢らしさが初めて崩れた。
「何から守ってくださっていたのです、お兄様は!!」
扇を握る手が震えていた。
いつも感情をきれいに隠すこの子が。表情の崩し方を知らないこの子が。
今、剥き出しの顔で俺を睨んでいた。
――ここで、また、俺は嘘をつくのか。
脳裏を、過保護に塞いだ唇のことがよぎった。
あの中庭で「話があります」と言いかけたエレナを、「お前は大丈夫だ」と笑って撫でた、あの手の事が。
守るふりをして、この子の口を塞いだ。その結果が血塗れの背中だ。
もう一度、同じ事をするのか。
「守るためだ」と頭の中の声が言う。知れば、この子は潰れる。
だったら、知らせなければいい。これまでだってそうしてきた。原作を知る兄が先回りして、危険を全部潰してやればいい。妹は何も知らないまま、笑っていればいい。それの何が悪い。
――悪いさ。
別の声が答えた。それは、前世の最後の電話の音によく似ていた。
後で話せばいい。今は心配をかけたくない。
そうやって、肝心な事をいつも後回しにした。
妹が、一番俺に聞いて欲しかった事を、俺はいつも聞かなかった。
そして、聞く機会は――ある日突然、永遠に消えた。
この子は目の前にいる。今、ここで、俺に答えを求めている。
それを、また塞ぐのか。
俺は杖を握り直した。
そして――息を吐いた。
「……座れ、エレナ」
長椅子に腰を下ろした。背中が悲鳴を上げたが構わなかった。
エレナは座らなかった。立ったまま、俺を見下ろしていた。
「話す。全部だ。だが聞いたら……取り返しがつかないぞ。それでも……聞くか?」
エレナの喉がこくりと動いた。
「……聞きます」
もうここまで来たら、後戻りは出来ない。
――だから、俺は話した。
俺が別の世界の記憶を持って、この身体に生まれたこと。
その記憶の中に一冊の物語があったこと。
その物語の中で、エレナ・アルヴァレスという公爵令嬢が聖女候補を妬み、嫌がらせを重ね、毒を盛ったとされ。
そして卒業の日、王太子に婚約を破棄され、罪人として断罪され、王国を追放され。
「そして……死ぬ」
俺は言った。
言ってしまった。
「原作の――その物語のエレナは、最後に死ぬ。それが、お前に用意された結末だ」
書斎がしんと静まり返った。
窓の外で鳥が鳴いた。間の抜けた平和な声で。
エレナは、しばらく動かなかった。
血の気の引いた顔のまま、ただ立っていた。
悲鳴も上げなかった。泣き崩れもしなかった。崩れ落ちることすらしなかった。
ただ、扇を握る手の指の関節が白く浮くほど力が込められていく。それだけが、彼女が何を堪えているかを語っていた。表情を崩さない訓練を受けた令嬢が、その訓練のすべてを使って、内側で起きている地崩れを必死に押し止めていた。
やがて、その唇が微かに動いた。
「……それで」
声は、不思議なほど静かだった。
「それをお兄様は……いつから、ご存じでしたの?」
「……お前と再会した、最初からだ」
「最初から」
エレナが繰り返した。
「では。わたくしが、初めてお兄様に駆け寄った時から。わたくしがお兄様を信じて、王太子妃教育に耐えていた時から。学園で、ひとり、皆の視線に耐えていた時から。――ずっと、お兄様だけは、わたくしの結末をご存じだったのですね」
「エレナ、それは――」
「何故、おっしゃってくださらなかったのです……?」
エレナの瞳に涙が盛り上がった。
だが、こぼれはしなかった。彼女は、それをこぼすのを許さなかった。
「わたくしが、潰れるから? お可哀想だから? ――ええ、そうでしょうとも。お兄様は、いつも、お優しい。わたくしのために王太子殿下にも噛みつき、教会の者にも怯まず、その身を血塗れにしてまで」
一歩、エレナが退いた。
「でも、お兄様。ひとつだけ教えてくださいませ」
涙を湛えたまま、彼女はまっすぐに俺を見た。
「お兄様は、わたくしを何から守っていたのですか? 未来から? 世界から? それとも――」
言葉が切れた。
ほんの一拍。
その間に、この子が、どれほどの覚悟を飲み込んだのか。
「それとも……わたくし自身から、ですか?」
俺は――答えられなかった。
〝未来から〟と言えば嘘になる。〝世界から〟と言えば半分しか本当じゃない。
そして――〝わたくし自身から〟と。
その問いに、否と言い切れるか。
俺は原作のエレナを知っていた。妬む令嬢、毒を盛る令嬢を。だから、目の前のこの子の中にも、いつかそれが芽吹くんじゃないかと、心のどこかで見張っていなかったか。
守るふりをして、この子の未来の罪まで先回りして、潰そうとしていなかったか。
言葉が出なかった。
その沈黙が答えだった。
「……お兄様」
エレナの声が震えた。
今度こそ、涙が、一筋、頬を伝った。
「わたくしの人生を――」
彼女は言った。
絞り出すように。けれど、はっきりと。
「わたくし抜きで――救わないでください」
俺は立ち上がろうとした。背中が軋んだ。
「エレナ――」
「来ないでくださいませ!」
扇を胸の前で握りしめて、エレナは後ずさった。
「今は……お願いですから……わたくしに考える時間をくださいませ……」
そう言って、彼女は書斎を出ていった。
今度は、礼すらしなかった。
扉が閉まる。
俺は長椅子に崩れるように座り込んだ。
……守れた、と思っていた。
原作の惨劇は起こさなかった。誰も殺させなかった。死なせなかった。
なのに――一番傷つけたくなかった相手の、最も柔らかいところを。
俺は、今、自分の手で抉ったのだ。
杖の先で、床をコツと突いた。
それが、やけに大きく響いた。




