第21話『優しい嘘』
背中の傷が塞がりきらない内に屋敷へ戻された。
医者は安静を言いつけ、家令は俺の枕元に薬湯の匂いを満たし、使用人たちは足音を忍ばせて歩くようになった。アルヴァレス家の長子が骨を何本か折って血塗れで運び込まれたのだ。屋敷中が腫れ物に触るような静けさに沈んでいた。
だが、一番静かなのは――エレナだった。
「お兄様。お薬の時間です」
昼下がり。寝台の脇に立ったエレナが銀の盆をそっと差し出す。
白い指が薬湯の碗を俺の手のひらへ渡す。指先が、一瞬だけ触れて、すぐに離れた。
「ああ……すまないな……」
「いいえ」
それきり会話が続かない。
以前なら、こうではなかった。
寝込んだ俺の枕元で、エレナは、いつも山ほど喋った。
今日の授業のこと。中庭の薔薇が咲いたこと。家庭教師の小言。とりとめのないが、温かい声で病室を満たしてくれた。俺がろくに相槌も打てずにいると、「お兄様、聞いていらっしゃいますの?」と頬を膨らませた。そして、すぐに、また笑った。
その声が、今はない。
おかしな話だった。
エレナは、毎日、欠かさず俺の見舞いに来る。
薬の時間も、食事の世話も、包帯の取り替えも、彼女は一度たりとも人任せにしなかった。献身的だ、と言ってもいい。
なのに――その距離が近ければ近いほど、俺は息が詰まった。
あの日、暴走した魔力の中心で俺はこの子を抱きしめた。血で汚しながら。
なのに今は、薬湯の碗ひとつを間に挟まなければ触れられない。
「――お兄様」
碗を盆に戻したエレナが、伏し目がちに口を開いた。
「あの晩……わたくしが医務室を辞した後に……どなたか、お兄様を訪ねていらしたと聞きました」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「……誰が、そんなことを」
「医務室の夜番の方が見かけたそうです。月明かりの中を、若いご令嬢がおひとりで。聖女候補の――ミリア様だと」
ギクリとした。顔には出さなかったつもりだ。出さなかったと、信じたかった。
「……ああ、ミリア嬢か。見舞いだよ。あの暴走で彼女も巻き込まれかけたからな。一言、礼を言いに来ただけだ」
嘘ではない、半分は。
あの晩、ミリアは確かに見舞いに来た。だが、彼女が語ったのは礼などではなかった。
――「あなたが妹さんを救えば、この世界は滅びます。私はそれを何度も見てきました」
何度も――
ミリア・フォルテは、この世界を何度もやり直している。その度にエレナは断罪され、追放され、そして死ぬ。ミリアは聖女として覚醒し、王国を救う。そういう物語を、彼女は嫌というほど見てきた。
その重さが、今、俺ひとりの胸の中で軋んでいる。
言えるか、そんなこと。
「お前は何度も殺される妹だ」なんて。
「……礼を、ですか」
エレナの声が、ほんの少し低くなった。
「夜更けに、おひとりで人目を忍んで。礼を申し上げるためだけに?」
「ミリア嬢も、色々と気を遣う立場なんだろ。お前と俺の家は王太子の婚約者の家だ。聖女候補が昼間に堂々と見舞いに来たら、また妙な噂が立つ。それを避けたんじゃないか?」
すらすらと口が動いた。
原作を知っている。先回りできる。嘘もつける。
……我ながらイヤな特技だ。
エレナは何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見ていた。
その瞳が何かを確かめている。俺の言葉のつなぎ目のほつれを探すように。
「お兄様は――」
やがて、エレナがぽつりと言った。
「お優しいですね。わたくしには、いつも心配のいらない事だけをおっしゃってくださる」
褒め言葉のはずだった。
なのに、刃のように聞こえた。
「……当たり前だろう。お前は、俺の妹だ」
「ええ。妹です」
エレナは銀の盆を抱え直し、寝台の脇から一歩退いた。
「だから、わたくしは……ずっと、何も知らないままなのですね……」
そう言って、彼女は令嬢らしい完璧な礼をして部屋を出ていった。
扉がかちりと閉まる。
俺は天井を見上げた。
包帯の下で背中の傷が鈍く疼く。
……気付かれている。
まだ真実までは届いていないが、確実に感づかれている。
俺が何かを隠していることに。
守るためだ。
知れば、この子は潰れる。
自分が断罪され、死ぬ運命だと知って平気でいられる十六の少女がどこにいる。
だから隠す。最後まで隠しきって、その運命ごと捻じ伏せてやる。
それが正しいはずだった。
なのに、薄れていく足音を聞きながら、俺の胸に残ったのは――いつか聞いた、前世の妹の最後の電話の呼び出し音だった。
出られなかった、あの音。後でかけ直せばいい、と思った、あの音。
――その後では、もう二度とかからなかった。




