第19話『前世の後悔』
ミリアが、一歩近づいた。
そして、恐る恐る、手を伸ばす。
ベッドの上に投げ出された俺の手の甲に、その細い指先がそっと触れた。
「少しだけです。すぐ、終わります。だから――」
胸元の聖印が、ほのかに白く灯った。
その光が彼女の指先を伝って――俺の意識の奥へ。
――雨が降っていた。
灰色の空から糸を引いた雨が、王都の石畳を濡らしている。
その雨の中に――エレナが立っていた。
卒業の夜会のドレスのまま、けれど断罪はされていない。誰にも引き立てられず、震えながら隣の誰かの手を握りしめている。
ミリアの手を。
次の瞬間――空が裂けた。
縦にまっすぐ夜が割れる。
その裂け目から黒い灰が降ってくる。雪のように、けれど雪より、ずっとひどいものが。
城壁の外、遠くの村が燃えていた。夜の地平線が橙色に滲んでいる。
街道を進む避難民の列を黒い波が先頭から呑み込んでいく。
人も、馬も、荷車も、逃げ惑う悲鳴ごと。
泣き叫ぶ子どもを抱きしめた母親が、その黒い穢れに足元から沈んでいく。
子どもを頭の上に掲げたまま、最後まで。
白い神殿の鐘が鳴っていた。
鳴って、鳴って、鳴り止まない。
誰かを呼ぶように、助けを求めるように。けれど、誰も応えない。
その鐘の下でミリアが聖女の杖を握りしめている。杖の先から白い光が溢れている。
けれど――足りない。
全然、足りない。彼女の光は、黒い灰のほんの一握りを払うので精一杯で。その隙にも向こうでは、また、いくつもの命が沈んでいく。
エレナは生きている。
その、代わりに。
数えきれない程の人々が死んでいく。
――息が止まった。
俺は、ベッドの上で跳ね起きていた。背中に激痛が走る。
でも、そんなもの、どうでもよかった。
心臓がめちゃくちゃに鳴っている。さっき見た光景が、まだ瞼の裏に焼きついて離れない。あの母親の。あの子どもの。あの鳴り止まない鐘の――。
「ぜ……っ、はあ……っ……!」
俺は荒い息を整えようとしたが、整わなかった。
「これが――」
ミリアの声が聞こえた。
俺の手からそっと指を離しながら。
「私が何度も見てきた世界です。エレナ様が断罪を免れた世界。エレナ様を救った世界の――結末です」
彼女の瞳がまっすぐ俺を見た。
涙に濡れたまま。
けれど、その奥には何度も諦めてきた者だけが持つ静かな絶望が沈んでいた。
「あなたが妹さんを救えば、この世界は滅びます。私はそれを何度も見てきました」
病室が、しんと静まり返った。
俺は汗の滲んだ手でシーツを握りしめた。
言葉が出ない。
あんなものを見せられて。あの黒い波を。あの子どもを抱いた母親を。
あるひとつの天秤がある。
天秤の片方に――たった一人の妹がいる。エレナが。
もう片方に――顔も名前も知らない、何万人もの命が積み上がっている。
卑怯だ、と思った。こんな天秤を突きつけてくる世界が。一人と、何万人。そんなもの比べるまでもない、と。だから――お前は妹を諦めろ、と。そう言わせるために組まれた天秤だ。
わかっている。
わかっているのに――それでも、俺は。
エレナを天秤に乗せたくない。一瞬たりとも迷いたくない。
その揺るぎなさが、さっきミリアが言った「呑み込んでしまう強さ」なのだと、頭の冷えた部分が囁いた。
――だが、俺は奥歯を噛んだ。
「……何度見たかは知らない」
絞り出すように言った。
「君が、どれだけの繰り返しを背負ってきたのかも。本当のところはわからない。だが、ひとつだけ言えることがある」
顔を上げた。
「俺がいる世界は今回が初めてだ」
ミリアの目が、わずかに見開かれた。
「君が見てきた、何度ものエレナの断罪。その中に、俺はいたか? 妹を救おうと王太子を伸ばして、冤罪を叩き潰して、暴走に飛び込む。そんな兄貴は過去のループにいたか?」
「……いいえ」
ミリアは、首を横に振った。
「いませんでした。あなたみたいな人は……レオン様みたいな人は、これまでのどの繰り返しにも一度も」
「だろうな」
俺は口の端を吊り上げた。痛みで引きつったかもしれない。
「なら、今回は、君の見てきた台本とは違う。少なくとも、ひとつ、新しい役者が勝手に舞台に上がってる。なら、結末が同じだと誰が決めた?」
ミリアの瞳が、ほんの一瞬、揺れた。
その奥に何か灯りかけたものが見えた。
――「期待」だ。縋るような淡い期待。
けれど、彼女は、すぐにその光を自分で握り潰した。ぎゅっと目を閉じて。
まるで、もう何度もその期待に裏切られてきたとでも言うように。
ああ、と俺は思った。
コイツは何度も希望を見たんだ。その度に、それが砕けるところも見てきたんだ。
だから――希望そのものを怖がっている。
啖呵を切ったつもりだった。
退かない、と。今回は違う、と。
だが――ミリアは退かなかった。
彼女は、俺の言葉を静かに受け止めて。そして、もう一歩踏み込んできた。
俺の最も柔らかいところへ。
「……レオン様」
その声は責めるようでも、勝ち誇るようでもなかった。
むしろ、痛みを堪えるような声だった。
「ひとつ……訊いてもいいですか?」
「……なんだ?」
「あなたは――」
ミリアは、俺の目を、まっすぐ、見た。
「あなたは、本当に――今のエレナ様を見ていますか?」
俺の息が詰まった。
「あなたを見ていると……落ち着かないんです。これまでの、どの繰り返しにも、あなたはいませんでした。だから、わかるんです。あなたがいるだけで、この世界の流れが少しずつ変わっているって。理屈はわかりません。ただ、こんなに何度も同じ時間を繰り返してきたから……前と違うものがわかるんです」
心臓が、嫌な音を立てた。
「あなたがエレナ様を見る目は……今のエレナ様を見ている目じゃない。もっと、ずっと前に失くしてしまった、誰かを。取り返そうとしている目です」
やめろ。
俺は思わず視線を逸らした。
「あなたは、妹さんを救いたいんじゃなくて――前世の後悔を埋めたいだけ、なんじゃないですか?」
――時間が止まった。
「反論しろ!」と頭の片隅で声がした。
「ふざけるな!」と。「俺は、ちゃんとエレナを見ている!」と。
「前世だの後悔だの関係ない、今の妹を救いたいだけだ!」と。
そう言い返せばいい。一秒で。いつもみたいに相手の論理の穴を突けばいい。
なのに――口が、動かなかった。
脳裏に勝手に蘇る。
前世の最後の電話。
画面に、妹の名前が表示されていた。確か、何度か鳴っていた。
だが、俺は――忙しかった。後でかけ直そうと思った。
たった、それだけのことだった。仕事が一段落したら。あと少し手が空いたら。
そう思って、通知を伏せた。
かけ直す機会は二度と来なかった。
病院から連絡が来たのは、その日の夜だった。
俺が最後に見た妹の名前は、結局、応答しなかった。「不在着信」の文字のままだった。
――「お兄ちゃん」。
あの時、あいつは、何を言おうとしていたんだろう。
俺は、未だに知らない。
知らないまま――今度こそ、と思った。
今度こそ間に合わせる、と。今度こそ救う、と。
その「今度こそ」の先に立っているのは。
今の、エレナか。
それとも――電話に出てやれなかったアイツか。
「…………」
俺は答えられなかった。
一秒どころか、十秒経っても、言葉が出てこなかった。
完全に図星を突かれたわけじゃない。
俺は、今のエレナをちゃんと可愛いと思っている。守りたいと思っている。
それは本当だ。嘘じゃない。
だが――そこに一滴も前世の後悔が混ざっていないかと、問われたら。
そんなものはない、と。
胸を張って言い切る自信が、俺にはなかった。
ミリアは責めなかった。
黙り込んだ俺を、ただ悲しそうに見ていた。
まるで、自分も同じ場所で何度も立ち尽くしてきた、とでも言うように。
「……すみません」
やがて、彼女は小さく言った。
「意地悪を言いたい訳じゃないんです。ただ、私……あなたみたいに強く退かない人を見ると。怖くなるんです。その強さが、いつか――エレナ様じゃなくて、何万人もの知らない誰かを呑み込んでしまう事に気付かないまま突き進むんじゃないかって……」
ミリアは、ベッドの脇の丸椅子に力なく腰を下ろした。
糸が切れたように。長く立っているのも辛かったのかもしれない。
「それに……あなたを責められるほど……私は立派じゃないんです」
俯いたまま彼女は言った。
「もう一度、やり直したい。あの時に戻れたら。そう思う気持ちなら――たぶん、私は世界中の誰よりもよく知っています。だって、その気持ちが私をここに閉じ込めているんですから」
彼女が何をやり直したかったのか。
ループの一番最初に何があったのか。
俺は訊かなかった。訊ける雰囲気ではなかった。
ただ――わかったことが、ひとつ。
コイツもまた何かを救えなかった人間だ。
救えなかったから繰り返している。救えないまま繰り返すうちに、心がすり減って。いつしか誰かを犠牲にする結末を受け入れる方が楽になってしまった。
俺とミリアは――多分、同じ場所から逆の方向へ歩き出した似た者同士だった。




