第17話『悪役になるのですか?』
俺は、もう観覧席を蹴っていた。
――『身体強化』。
全身の魔力を根こそぎ筋肉と骨へ叩き込む。
詠唱? そんな悠長なモノ要るか。間に合わない。
模擬戦で王太子を下した、あの一撃と同じ理屈だ。
だが、今回は攻撃じゃない。
守るための突進だ。
黒い奔流のど真ん中へ、俺は頭から飛び込んだ。
瞬間、皮膚が焼ける。いや、焼けるなんて生易しいものじゃない。
黒い穢れは、触れた端から肉を削いでいく。炎でも刃でもない。もっと、おぞましい何かが内側から命そのものを引きずり出そうとする感覚。
――構うものか。
俺は左腕でエレナを、右腕でミリアの障壁ごと、二人をまとめて抱え込んだ。
そして、自分の背中を黒い波の最も濃いところへ向けた。
「ぐうっ!」
背骨が軋んだ。
黒い波が、俺の背中を引き裂く。鎧みたいに張った身体強化の魔力が片端から剥がされていく。激痛なんて言葉では足りない。命の在処を、直接握り潰されるような。
それでも、俺は二人を離さなかった。
離せば――こいつらが死ぬ。
それだけは、わかっていた。
◇
どれくらい、そうしていたのか。
永遠のようでもあり、一瞬のようでもあった。
やがて――黒い波は勢いを失い、霧のようにほどけて消えていった。
まるで、どこかで見えない幕が下ろされたように。
演習場に静寂が落ちた。
焦げ、抉れ、ひび割れた石畳の、その中央に。
俺は、二人の少女を抱えたまま膝をついていた。
(……何とか、守れた)
二人とも無事だ。エレナも、ミリアも傷ひとつない。巻き込まれかけた下級生たちも、ミリアが庇って無事だ。大きな怪我を負った者は一人もいない。
俺は勝った。
原作通りの惨劇は起こさなかった。
エレナは、誰一人、傷つけなかった。
なのに。
なぜだろう。
ちっとも、勝った気がしなかった。
「お、お兄様……?」
腕の中でエレナが震える声を上げた。
「お兄様、血が……お兄様の、背中から……血がこんなに……」
ポタリと、石畳に赤いしみが広がっていく。
ああ、と他人事のように思った。そういえば、背中の感覚がもうない。
身体強化が切れた途端、抑え込んでいた痛みが、津波になって押し寄せてきた。視界がぐらりと傾ぐ。
「お兄様! お兄様、お兄様――!」
エレナが、俺の身体にすがりついた。
その手が俺の血で真っ赤に染まっていく。
彼女は、その自分の手を見た。俺の血で濡れた自分の手のひらを。
そして。
糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
「……わたくしの、せいです」
声が震えていた。
「わたくしの、魔力が……わたくしが、暴走させたから……だから、お兄様が……お兄様が、こんな……」
違う、と言いたかった。
お前のせいじゃない。あんなもの、お前の悪意なんかじゃない。少なくとも、俺の知っているエレナの魔力ではなかった。
そう言ってやりたかった。
だが、唇が動かなかった。血を吐いた。視界が白く明滅する。
「みんな、言っておりました」
エレナの声が遠く聞こえた。
「やっぱり……エレナが、ミリア様を狙ったのだと。やっぱり、あの女が悪いのだと。教材のときも。今日も……わたくしは、何もしておりませんのに。誰も傷つけたくなど……ないのに……」
彼女の指が、俺の袖を握りしめた。
ぎゅうと、爪が食い込むほど強く。
「お兄様。教えてください。わたくしは……」
顔を上げた、エレナの瞳には。
もう令嬢の完璧な微笑みはなかった。
ただ、十六の少女の剥き出しの恐怖だけがあった。
「わたくしは……本当に、悪役になるのですか?」
その問いが、薄れていく意識の中で楔のように突き刺さった。
悪役になるのか。
違う。お前はならない。なってたまるか。そのために、俺はここにいる。
なのに――俺は答えられなかった。
だって、そうだろう。
原作を知っていた。先回りした。班も、試験順も、距離も、全部潰した。
完璧に立ち回ったはずだった。
それでもこうなった。
原作よりひどくなった。
俺の知識は間に合わなかった。
いや――それだけじゃない。
守る、守ると囲い込んで。この子に、何ひとつ、言わせなかったのは俺だ。
守ったつもりで追い詰めていた。
遠ざかる意識の奥底で、前世の妹の声がした。
――「エレナ様は、本当は悪い子じゃないんだよ」
ああ、知ってる。
知ってるんだ。だから頼む。
この子を悪役になんかさせないでくれ。
崩れる視界のずっと向こう。
演習場の最も高い回廊の隅に。
白い教会の装束を纏った若い人影が、ひとつ、立っていた。
灰がかった淡い色の髪。胸元では、銀の聖印が陽の光を弾いてチラリと光っている。
逃げ惑う生徒たちにも、抉れた石畳にも目もくれず。
その人影は、胸の前で両手を静かに組んでいた。
俯いた横顔は穏やかで。唇が微かに動いている。
まるで――この惨劇に嘆くでも、驚くでもなく。
とうに、こうなることを知っていたかのように。ただ、静かに祈りを捧げていた。
「誰だ」と、問いたかった。
だが、それより先に。
俺の意識はプツリと闇に落ちた。
◇
目が覚めた時、あたりは夜だった。
白い天井に、薬品の匂い――学園の医務室だ。
背中が火で炙られているみたいに熱を持ってズキズキと脈打っている。
動こうとして激痛が走り、思わず息を止めた。
……派手にやられたな。身体強化をあんな無茶な使い方をしたんだ。当然だ。骨も何本かいっているらしい。
窓の外は深い藍色だった。
エレナはどうしただろう。あの後どうなった。あいつは無事か。
起き上がろうとして、また痛みに呻く。
そのとき。
病室の扉がカタンと、小さな音を立てて開いた。
月明かりを背に立っていたのは。
エレナでも、ノアでも、教師でもなかった。
ミリア・フォルテ。
原作ヒロインの少女が、たった一人で、そこに立っていた。
「……起きていらしたんですね」
彼女の声は、震えていた。
いつもの、人好きのする明るさはどこにもない。
試験の時の、あの不自然なまでに速い動きの迷いのなさもない。
ただ、何か、ずっと一人で抱え込んできたものに押し潰されそうな。
そんな頼りない顔で――彼女は、俺を見ていた。
「あの暴走を……あなたは、その身体で止めてしまった」
ミリアは、ゆっくりと一歩、病室の中へ踏み込んだ。
扉を後ろ手に静かに閉める。誰にも聞かせたくないものを語ろうとするように。
「もう……隠していられません。このままでは、きっと……もっとひどいことになります」
彼女の手が震えていた。
固く、握りしめた、その手が。
「だから――」
ミリアは、まっすぐに俺を見た。
「レオン様。あなたに、話さなければならないことがあります」
その瞳の奥に、いったい何が沈んでいるのか。
今の俺には、まだ知る由もなかった。




