第15話『次の段は踏ませない』
教材が壊された〝あの事件〟から、学園の季節は幾度か巡った。
あれからも、世界は静かにしてはいなかった。
エレナの席の教本だけ決まった頁が抜け落ちている。
生徒たちが使用する魔具が、何故か彼女の時に限って不調を起こす。
誰が言い出すでもなく、噂だけがじわじわと形を変えていく――あの令嬢は、どこか危うい、と。
一つ一つは些細だった。事件と呼ぶ程のモノでもない。
だが、そのどれもがエレナをもう一度あの坂の上へ押し戻そうとする小さな手のように見えた。
俺は、その度に動いた。
調べ、先回りし、芽のうちに潰した。
噂の出所に釘を刺し、嫌がらせを仕込んだ手合いには――言葉で通じなければ、拳でわからせもした。止める手をほんの少しでも緩めれば、エレナはまた坂を転がり始める。そんな予感がずっと背中に張りついていた。
それでも――世界は諦めなかった。
何度、芽を摘んでも。別の形で、また妹のもとへ手を伸ばしてくる。
まるでエレナを悪役令嬢にする結末を何としても書き上げようと、世界そのものが筆を執っているみたいに。
そうして、俺たちは卒業を控えた最上級の年を迎えていた。
今年こそ、世界は一番大きな仕掛けをぶつけてくる。
原作を知る俺には、それが何かもわかっていた。
――『魔法実技試験』。
原作で、エレナが破滅へ一歩を踏み出すイベントの名だ。
筋書きは、こうだった。
嫉妬に駆られたエレナが、試験中、ヒロインのミリアめがけて魔法を暴発させる。ミリアは軽い火傷を負い、エレナは「聖女候補を害そうとした危険な令嬢」という評判を、もう一段深く刻まれる。教材破損、魔法暴走、毒殺未遂、そして卒業の断罪。原作のエレナは、その階段を一段ずつ丁寧に転がり落ちていく。
だったら――次の段を踏ませなければいい。
俺は実技試験の三日前から動いていた。
「お兄様。試験の組分けが変わったと聞きましたが」
朝の屋敷の食堂で、エレナが紅茶のカップを置いて言った。
俺は、出来るだけ何でもない顔で答えた。
「ああ。教師に頼んで、お前の試験順を最後尾にしてもらった。最初のほうは、まだ皆、魔力の制御が乱れがちだからな。落ち着いて臨めるほうがいい」
「……それは、ありがとうございます。ですが――」
エレナの指先が、カップの取っ手をそっとなぞった。
「ミリア様と同じ班でないように、と。それも、お兄様が?」
ギクリとした。相変わらず、よく気付く子だ。
原作のイベントは、エレナとミリアが至近距離にいることで起きる。
だから、二人を引き離した。試験の班も、控え室も、別にした。当然の手だ。
それだけじゃ足りない。魔力が荒いと評判の連中が、エレナの近くに並ばないよう立ち位置まで組み替えてもらった。どの観覧席に座れば、いざというとき最短でエレナに届くか。控え室の場所も、逃げ道も、全部、頭に叩き込んである。
「……お前のためだ」
「わたくしの、ため」
エレナは繰り返した。怒っているのではない。ただ、その言葉の重さを確かめるように。
「お兄様。わたくし、ミリア様を避けているように思われては――」
「思われたっていい」
俺は遮った。少し強すぎた声で。
「お前の評判よりお前の安全のほうが大事だ。学園でも、なるべく一人で動くな。危なそうな連中には近付くな。何かあったら、すぐ俺を呼べ。いいな」
エレナは、しばらく俺を見ていた。
その瞳に、何かがよぎった。ありがたさと――それから、もうひとつ。
名前のつかない、息苦しさのようなもの。
「……はい。お兄様のおっしゃる通りに」
令嬢らしい完璧な微笑みだった。
完璧すぎて何も読み取れない微笑みだった。
後で思えば、ここで気付くべきだったのだ。
この子は、笑顔の訓練を受けている。本当に苦しい時ほどキレイに笑う。前世の妹が、一番痛い時ほど笑おうとしたように。
だが、そのとき俺は、自分の段取りのことで頭がいっぱいだった。
原作を知っている。先回りできる。次の段は踏ませない。
それだけを考えていた。
◇
試験前日の夕暮れ。
学園の中庭で、俺はエレナの最後の調整に付き合っていた。
エレナの魔法は、清廉な銀白色をしている。
アルヴァレス家の紋章である『翼を広げた銀の鷹』。それを思わせる、澄んだ光の粒が、彼女の手のひらの上でふわりと舞う。本人の気高さがそのまま光になったような魔力だ。
「綺麗だな」
思わず、そう言った。
エレナは、少しはにかんだ。こういう顔の時の彼女は令嬢でも、悪役令嬢でも、なんでもない。ただの、よく出来た健気な妹だ。
「……お兄様」
光の粒を見つめたまま、エレナがぽつりと言った。
「あの……試験のことで、ひとつ、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「んっ? どうした?」
その時。
エレナの手のひらの上で銀白色の光が、ほんの一瞬、グニャリと歪んだ。
いや――歪んだ、というより。
澄んだ銀の中に、墨を一滴落としたような黒い糸のようなものが混ざった気がした。
「……?」
俺が目を凝らした、次の瞬間には。
もう、光は、ただの銀白色に戻っていた。エレナの手の上で、何事もなかったように静かに舞っている。
「……今の」
「あっ、いえ」
エレナが慌てたように手を握って光を消した。
「何でもありません! ……少し、魔力が乱れたてしまったようです」
「乱れた」。
……いや、アレは乱れなんてものじゃない。色そのものが違った。
エレナの魔力に別の何かが混ざっていた。
俺は口を開きかけた。
「エレナ。お前、最近、魔力に――」
「お兄様」
エレナが、俺の言葉をふわりと包むように遮った。
「わたくしは大丈夫です」
その微笑みは、また完璧だった。
「お兄様が、これほど、わたくしのために尽くしてくださっているのです。試験の組分けも、班分けも、ぜんぶ。わたくしの事を、こんなに心配して。……これ以上、お兄様にご心配をおかけするわけにはまいりません」
胸の奥がチクリとした。
心配をかけるわけにはいかない。
その言葉に、俺は温かいものを感じて――そして、何かを見落とした。
「……話って、それだけか?」
「はい。お兄様にお礼を申し上げたかっただけです」
嘘だ、と今ならわかる。
あの時、この子は言いかけて――やめた。これほど必死に守ろうとしている兄に、これ以上、心配をかけられない。そう思って飲み込んだのだ。
俺の過保護が、この子の口を塞いだ。
「そうか。ならいい」
俺は、笑ってエレナの頭を撫でた。
「明日の試験は心配するな。何があっても、俺がついてる。次の段は、絶対に踏ませない」
エレナは、こくりと頷いた。
握りしめた手のひらの中で、まだ消えきらない黒い糸が微かに蠢いていたことを。
俺は、知らなかった。




