第14話『ただの悪意じゃない』
「ち、違うの……」
崩れるように、クラリッサがその場に膝をついた。
「違うの……わたくし、こんなことを……するつもりじゃ、なかった……」
涙がぼろぼろとこぼれていた。
勝ち誇っていたあの顔は、もう、どこにもなかった。ただ、怯えた子どもの顔で、彼女は自分の手のひらを――羊皮紙の繊維がこびりついた、その手を信じられないものを見るように見つめていた。
「でも……エレナ様が、悪いと思ったら……止まらなく、なって……」
俺は、その言葉に足を止めた。
ここで畳みかけて、徹底的に叩けば胸はすくだろう。今朝からの理不尽の意趣返しにはなる。
だが――できなかった。
この令嬢の顔には、悪意を達成した者の満足が一欠片ない。あるのは、純粋な恐怖だった。自分が、自分でないものに突き動かされていた。その記憶に怯えている顔だった。
「お前」
「ひっ!」
俺は、出来るだけ静かに尋ねた。
「……どうして、こんなことをした?」
「わかり……ません……」
クラリッサは首を振った。涙で化粧が崩れていた。
「気が、ついたら……教室にいて……手が、勝手に……気が付いたら、教科書が、こんなに……」
そこで、彼女は、自分の言葉に自分で戸惑うように眉を寄せた。
「夜、だったのか……朝、だったのか……それすら、もう、よく……。ただ、あたりが暗かったような気もするのです。でも、そんなはずないと、わかっておりますのに……」
暗かった。
その一言に、俺は内心で引っかかった。
教室は、夜の間、施錠されていた。彼女が忍び込めたのは、今朝、鍵が開いてからのはずだ。
施錠記録もそう示している。俺の調べた筋道は間違っていない。
なのに――本人の記憶の中では、その『夜』と『朝』の境すらも溶けて、曖昧に滲んでいる。
まるで、その時間の前後だけ誰かにそっと書き換えられたみたいに。
……いや。考えすぎだ。動転した人間の記憶なんて、そんなものだろう。
だが――その引っかかりはどうしても消えてくれなかった。
「わたくし、エレナ様のことを……確かに生意気だと思ったことはありますわ。公爵令嬢だからって、いつもツンと澄ました顔で……でも、それだけ。それだけ……なのに……」
彼女の声が震えた。
「あの時だけ、何故か……あの方が許せなくて。憎くて、憎くて、たまらなくて。自分の中の、その気持ちが、まるで誰かに膨らまされたみたいに……どんどん、大きくなって……止め方がわからなくなって……」
膨らまされた。
その言葉が、耳の奥に引っかかった。
多少の妬みなら誰にでもある。エレナを生意気だと思う気持ちも、まあ、わからなくはない。だが、それと人気のない教室に一人で忍び込んで、何分もかけて他人のノートを引き裂く狂気との間には深い、深い断絶がある。
その断絶を何かが無理やり埋めた。
――「一人の人間から、こんな憎悪が湧くものなのか」
ノアの問いが、今、はっきりと答えを求めて立ち上がってきた。
ふと、ミリアを見た。
原作ヒロインの少女は壇の隅で両手を胸の前で握りしめて、クラリッサを見ていた。その腕には無残に破られた教材が、まだ抱えられている。傷つけられたのは、ほかでもない、この少女なのだ。
その表情に、俺はまた引っかかった。
被害者なのだ。教材を破られた、当の本人なのだ。なのに、その顔に浮かんでいるのは、「やっと犯人がわかった」という安堵でも、怒りでもなかった。
もっと、苦しそうで。もっと、痛ましそうで。
まるで、起きてしまったことの重さに、たった一人で耐えているような顔だった。
ミリアの唇が何か言いかけて小さく動いた。
「……エレナ様が悪者にされなくて……よかった」
絞り出すような小さな声だった。
安堵の言葉のはずだった。なのに、その声は、少しも晴れていなかった。
まるで、まだ何か終わっていないものをじっと見つめているような――そんな頼りない響きだった。
ミリアは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、唇を結んで俯いた。言いたいことが、まだ喉のところにつかえているのが、見ていてわかった。けれど、それを、決して口にしようとはしなかった。
今、問い詰めても、この子は答えない。それだけは確信があった。
「ねえ、レオン」
ノアが隣に来ていた。
いつもの軽口はなりを潜めていた。彼は、膝をついて泣くクラリッサと、宙に残ったままの歪んだ魔力の像を交互に見比べていた。
「僕はね、さっきから、ずっと考えてるんだ。あの娘の心から湧いたにしては、この憎悪は量が多すぎる。波長も妙だ。人の感情にしては輪郭が……規則的すぎる」
「規則的すぎる?」
「うん」
ノアは、目を細める。
「これは、魔法というより――もっと広い干渉かもしれないね」
『干渉』。
誰が。何に対して。なんのために。
わからない。何ひとつ、わからない。それでも、ひとつだけはっきりしたことがある。
今日、俺が叩き折ったのは、クラリッサ・ザイドリッツという一人の令嬢の悪意じゃない。
その背後にいる、もっと大きな顔のない、何か――エレナを無理やり『悪役令嬢』に仕立て上げようとする見えない手だ。
「お兄様」
エレナが、そっと俺の袖を引いた。
彼女は、膝をついて泣いているクラリッサをじっと見ていた。
「……正直に申します」
エレナの声は、低く震えていた。
「わたくし、悔しゅうございました。あらぬ疑いをかけられて、皆の前で吊るし上げられて……怖くてたまりませんでした。あの方のことも、お恨みする気持ちがないと言えば、嘘になります。腹も立ちました」
いいぞ、と思った。
それでいい。聖女みたいに何もかも飲み込まなくていい。
怒っていいし、恨んでいい。この子は、そういう弱さをちゃんと持っている。
「ですが」
エレナは、それでも続けた。
「あの方のお顔を見ておりますと……なんだか、あの方も、わたくしと同じように。何か訳のわからないモノに追い詰められて、苦しんでいたように……どうしても、そう見えてしまうのです。だから――せめて、それだけはお伝えしておきたくて」
憎しみと、同情と。怒りと、戸惑いと。
その、全部を抱えたまま、エレナはまっすぐにクラリッサを見ていた。
矛盾している。けれど、人の心なんてそんなものだ。
――エレナ様は、本当は悪い子じゃないんだよ。
前世の妹の声が、また、よみがえった。
ああ、そうだな。本当にそうだ。
悪い子なら自分を陥れた相手にまで、こんなふうには苦しまない。
「わかった」
俺は、エレナの頭にそっと手を置いた。
「もう、終わりだ。今日は、よく耐えたな」
エレナが、ようやく、ふっと肩の力を抜いた。
ホールには、まだざわめきが残っている。
少なくとも、今この場では、もう、誰もエレナを「悪役令嬢」とは呼ばなかった。
だが――それで全てが晴れたわけじゃない。
生徒たちの視線の奥には、まだ拭いきれない濁りのようなものが、薄く沈んでいた。
『疑い』というのは、一度かけられると、例え晴れても、うっすらと染みを残す。
今日の今日で、それが綺麗に消えるわけがない。
それでも――勝った。間違いなく勝った。
最初の冤罪イベントを、俺は知略で真正面から叩き壊した。
なのに――。
ぱち、と。
視界が、一瞬、瞬いた。
目の前のホールの光景に、見たことのない奇妙なものが薄く重なった。
四角い枠。
半透明の文字盤。
まるで――前世で、妹が病室のベッドで夢中で見つめていた、あの携帯ゲームの画面のような。
そこに、無機質な文字がちらりと流れた気がした。
『嫌がらせイベント 失敗』
『――補正、開始』
「……はっ?」
俺が、まばたきをした、その次の瞬間には。
もうホールは、ただのホールだった。文字も、枠も、跡形もなく消えていた。
誰も気づいていない。エレナも、ノアも、ミリアも。
ただ、俺の網膜の裏側にだけ、その無機質な文字の残像がじりじりと焼きついて消えなかった。
補正、開始。
――いったい、何が。
何が、今、始まったというんだ。




