第13話『まず、兄(おれ)を通してもらおうか』
昼。学園のホールに生徒たちが集まっていた。
壇上には、ユリウス。その傍らに、腕を組んだカイル。少し離れて、青ざめた顔のミリア。
そして、栗色の巻き毛を肩に流した、クラリッサ・ザイドリッツ子爵令嬢。
エレナは、俺の隣でまっすぐ前を向いて立っていた。
震える指は、もう隠していなかった。隠さなくても、立っていられるようになっていた。
「では、始めよう」
ユリウスが冷たく口火を切った。
「アルヴァレス殿。貴方は調べると言った。何かわかったか?」
「ええ。たっぷりと」
俺は、一歩前に出た。
「まず、ひとつ。エレナには犯行は不可能です。あの教材は何分もかけて引き裂かれた。しかし、エレナが今朝、教室に入ったのはすでに皆が騒ぎ始めた後――俺とずっと一緒にいた。引き裂く時間がどこにもない」
「リボンはどう説明する?」
クラリッサが鋭く割り込んだ。
「家紋つきのリボンが現場に落ちていたのですわ。それは、紛れもない――」
「ああ、そのリボンだ」
俺は、それを高くかざした。
「皆さんも見てください。皺ひとつない。汚れもない。結び目もほどけていない。――おかしいでしょう。何分も夢中で紙を引き裂いた人間の髪からぽろりと落ちたにしては、あまりにもお行儀がよすぎる」
ざわ、と生徒たちがリボンを見た。
「これは落ちたんじゃない。置かれたんです。エレナを犯人に見せるために、誰かが、わざわざ表を向けて家紋がよく見えるように、紙くずの上にそっと」
「証拠もなく、憶測を――」
「証拠ならあります」
俺は、ユリウスを、まっすぐ見た。
「殿下。フォルテ嬢の教材を破った人物は、必ず、その爪の間に、羊皮紙の繊維を残しているはずです。あれだけの量を、素手で引き裂いたのですから。おまけに、指には、教材の青いインクも、擦れて移っている。――殿下のお立ち会いのもと、関係する者の手を、順に、検めさせていただけますか。疑いを向けられた者から、疑いを向けた者へ。まずは――エレナの手から」
俺はエレナの手を取り、その手のひらと爪を皆に見えるように開いた。
白く、傷ひとつなく、繊維のひとかけらもない令嬢の手だった。
「カイル殿。あなたは卑怯が嫌いだ。弱い者いじめが許せない。なら――公平に調べてくれませんか。エレナだけじゃない。あの令嬢の手も」
カイルがグッと唇を結んだ。
こいつは単純だ。だが、根はまっすぐだ。だからこそ「公平」と言われて、目を逸らせない。
「……ザイドリッツ嬢。手を見せてくれ」
「な、なぜ……わたくしが!」
クラリッサの声が上ずった。背に隠した手を咄嗟に引っ込める。
「わたくしは被害者の味方ですわ。なぜ、わたくしが疑われ――」
「見せられない理由でもあるのか?」
カイルの声が低くなった。
「やましいことがないなら見せればいい。それだけだ」
ホールが静まり返った。
クラリッサの顔から、見る間に血の気が引いていく。彼女は何か言おうとして、言葉を失い、後ずさろうとした。
カイルは、すぐには手を出さなかった。一度、ユリウスを見る。王太子が裁定者として、静かに頷いたのを確かめてから――それから、ようやく、クラリッサに向き直った。
「……失礼する。確かめさせてもらうだけだ」
ひとこと断ってから、カイルは後ずさろうとするその手首をそっと、けれど逃さぬように支えた。乱暴さはなかった。むしろ、壊れ物にでも触れるような不器用な丁寧さだった。
手のひらが返される。
その爪の間に。指の皺の奥に。
羊皮紙の白い繊維と、聖属性インクの青い染みが――こびりついていた。
「……あっ」
誰かが声を漏らした。
潮が引くように生徒たちの視線がエレナからクラリッサへと移っていく。
カイルが自分の手を――たった今、クラリッサの手首を支えた、その手を見下ろした。喉の奥で低く呻くような声がした。
「……俺は」
握りしめた拳が、わずかに震えていた。
「俺は弱い者を守るつもりで……いったい、何を見ていたんだ……」
それきり、カイルは口をつぐんだ。歯を食いしばって、まっすぐにクラリッサを見つめたまま動かなくなった。
〝反省〟と呼ぶにはまだ早い。すぐに頭を下げるような殊勝さも、こいつにはない。
ただ、確かに――こいつの中で何かが軋んだ音を立てた。
それだけは、わかった。
ノアが、宙に淡い光の像を浮かべた。今朝の教室に残っていた、どす黒く歪んだ魔力の足跡。そのグニャリと潰れた輪郭を、クラリッサの魔力の波長と、そっと重ねてみせる。
「言っておくけど、これ単体じゃ証拠にはならないよ」
ノアは、あくまで気怠けに、しかしはっきりと釘を刺した。
「足跡は歪みきってる。これだけで『お前が犯人だ』なんて僕は言わない。――ただ、輪郭の癖は残ってる。その癖がザイドリッツ嬢のモノとよく似てる。そして、アルヴァレス嬢のモノとは似ても似つかない。手の繊維と、インクと、合わせて見れば……まあ、答えはひとつだろうね」
決め手は、魔法じゃない。手だ。
ノアの魔力は、あくまで、それを裏から押す一押しにすぎない。
だが、その一押しで、もう十分だった。
――そのときだった。
ざわめきの中で、ひとりの生徒が隣の友人に囁くのが聞こえた。
「ほら! わたし、朝、見たもの。あの方が教室に入っていくの」
俺は思わず、その生徒を見た。
さっき昇降口で声をかけたとき、この子は確かにこう言ったはずだ。「見たような気もしますけど……自信は、ないです」と。首を傾げて頼りなく。
なのに今は「見た」と言い切っている。
ほんの数刻で、曖昧だった記憶が断言に変わっていた。
――いや。気のせいだ。
皆が騒いでいるうちに、自分の記憶を勝手に塗り固めただけだろう。人はよくやる。
そう思おうとした。
なのに、なぜか――俺の中でだけは、その子の「自信は、ないです」という頼りない声が、消えずにはっきりと残っていた。背筋をすうっと冷たいものが撫でていった。
「殿下」
俺は、その違和感を、ひとまず脇へ置いた。
「これでも、まだ――エレナを裁きますか?」
ユリウスは、しばらく何も言わなかった。
端正な顔に、初めて明確な――気まずさが滲んでいた。自分が調べもせずに、婚約者を犯人と決めかけた。その事実を突きつけられて。
「……早計、だったかもしれん」
絞り出すような声だった。謝罪ではなかった。「かもしれん」。
そこが、こいつの限界だ。すんなり頭を下げられるほど、ユリウスという男はまだ誠実じゃない。
ただ――その間、ユリウスは一度も、エレナの顔をまっすぐには見られずにいた。婚約者を疑った後ろめたさくらいは、こいつにもあるらしい。
それでいい。今は、それで。
「殿下。最後に、ひとつだけ」
俺はにこりと笑った。たぶん、目は笑っていなかった。
「次に、誰かが妹を悪役にしようとした時は――裁く前に、まず、兄である俺を通してもらおうか。証拠が揃いすぎている事件ほど、だいたい罠だ。俺は――その罠ごと叩き折る」
ホールにどよめきが広がった。
エレナを見た。
彼女は両手で口元を覆って、こぼれそうなものを必死にこらえていた。
――勝った。
爽快なはずだった。
なのに、その勝利の真ん中で俺はまだあの冷たい違和感を振り払えずにいた。




