第11話『やっていないことの証明』
翼を広げた銀の鷹が床の上からこちらを見上げている。
エレナのリボン。今朝、確かに彼女の髪を結んでいたはずの、それが――破られた教材のかたわらに、まるで誰かがそっと供えたみたいに落ちていた。
「……ほら」
「やっぱり」
騒めきが一気に確信の色を帯びた。
さっきまでは「ありそうだ」という噂だった。だが、物証がひとつ転がっただけで、それは『事実』に化けた。人というのは見たいものが見つかると、こうも簡単に考えるのをやめる。
「証拠がありましたわね」
令嬢のひとりが勝ち誇った声を上げた。
昨日から、一番声を張っていた子だ。栗色の巻き毛を肩に流した、気の強そうな顔立ちの令嬢。
確か、子爵家の――名前はクラリッサ、のはずだ。
「ご自分の家紋付きのリボンを現場に落としておいて。これで言い逃れができまして?」
俺はエレナを見た。
エレナは青ざめていた。唇から血の気が引いている。
けれど――崩れてはいなかった。背筋を伸ばし、顎を引き、まっすぐに前を向いている。
スカートの陰で左手が震える右手をギュッと握りしめているのが俺にだけ見えていた。
泣くな、と祈った。
いや、祈らなくてもこの子は泣かない。前世の妹も最も苦しい時ほど笑おうとした。
エレナも同じだ。崩れたら負けだと、骨の髄まで叩き込まれている。
「……お待ちください」
エレナが口を開いた。掠れていたが芯のある声だった。
「そのリボンは、確かに、わたくしのものです。けれど、わたくしはその机に近づいてもおりません。何故、それがそこにあるのか――わたくしにもわかりません」
「わからないですって?」
クラリッサが扇で口元を隠して笑った。
「ご自分のリボンの行方もご存じないなんて。それとも、わたくしどもをよほど愚かだとお思いなのかしら?」
空気がピリピリと刺さってくる。
俺が一歩前に出ようとした、その時だった。
「――どけ」
太い声が人の壁を割って入ってきた。
大柄な男子生徒だった。短く刈った髪、日に焼けた肌、剣だこの目立つ手。
制服の上からでもわかる鍛え上げた身体。
騎士団長の息子だと、ひと目でわかる。
原作の攻略対象、カイル・ヴァルガ。
こいつもこの学園にいたか。会うのは、これが初めてだ。
「フォルテがやられたって聞いた」
カイルは破られた教材を見て、ぐっと顔をしかめた。
「……ひでえな。ここまでやるか。卑怯にもほどがある」
その視線がまっすぐエレナに向いた。
敵意ではない。もっと単純なまっすぐな怒りだ。弱い者が理不尽に傷つけられた。
それがこいつには許せない。善意なのだ。だからこそ質が悪い。
「アルヴァレス公爵令嬢。あんたがやったのか?」
「カイル」
もうひとり、人垣の向こうから端正な声がした。
王太子・ユリウス。
模擬戦であれだけ叩き伏せてやったというのに、その顔には屈辱の影もなく――ただ、公正な裁定者であろうとする、冷たい落ち着きだけがあった。
「決めつけるな。だが――状況は見ての通りだ」
ユリウスはリボンを一瞥し、それからエレナを見た。婚約者を見る目ではなかった。
罪状を確認する為政者の目だった。
「エレナ嬢。フォルテ嬢はこの学園に来て間もない。後ろ盾もない平民の身だ。そういう弱い立場の者が理由もなく狙われる。これを見過ごせば、学園の秩序が崩れる。王国の未来を担う者として、私はそれを看過できない」
ご立派な台詞だ。
ひとつも間違っていない。
ただ、ひとつだけ――こいつは、まだ何ひとつ調べていない。
「殿下はフォルテ嬢を守ろうとしていらっしゃる。立派なお心がけだ」
俺は、できるだけ穏やかに言った。
「では、お尋ねします。殿下は、エレナがこの教科書を破る瞬間をご覧になりましたか?」
「……いや」
「カイル殿は?」
「見てねえ」
「そこの令嬢は?」
俺は、クラリッサを見た。彼女の扇が、ほんの一瞬、止まった。
「……わたくしは、リボンを見ましたわ」
「リボンを見たことと、エレナが破ったことは、別の話だ」
俺は、教室をぐるりと見回した。
「誰も見ていない。誰ひとり、その目で犯行を見ていない。なのに、答えだけがもう出ている。リボンが一本落ちていた。たったそれだけで、一人の人間を犯人に仕立て上げようとしている」
しんと、教室が静まった。
「殿下。弱い者を守るのが正義だと、そうおっしゃった。でしたら――まだ何ひとつ証明されていないのに寄ってたかって一人を吊るし上げるこの状況こそ、一番卑怯な弱い者いじめだとは思われませんか?」
カイルの肩がびくりと揺れた。
「卑怯」「弱い者いじめ」――コイツの最も嫌う言葉が自分の方へ跳ね返ってきたのだ。
ユリウスは、しばらく俺を見つめてから静かに言った。
「……ならば、どうしろと言う」
「調べさせてください。昼までに」
俺は、まっすぐ王太子を見返した。
「証拠をちゃんと調べる。そのうえで、白か黒か、はっきりさせる。正しい裁きを望むのなら、それくらいの時間は惜しまないでいただきたい。――それとも殿下は、調べもせずに人を裁く王になりたいのですか?」
ユリウスの眉がわずかに動いた。
彼の理想は、『正しい王である』ことだ。
その理想を逆手に取った。我ながら嫌な交渉のしかただと思う。
だが、妹がかかっている。手段は選ばない。
「……いいだろう。昼までだ」
ユリウスは踵を返した。
「昼にホールへ集まれ。そこで、すべてを明らかにする。――エレナ嬢。もし、あなたがやったのなら、王太子の婚約者として相応の責任を取ってもらう」
最後の一言だけ婚約者への言葉だった。
けれどそれは、信じている者の言葉ではなかった。
人垣が少しずつ崩れていく。
エレナはその背中の群れが見えなくなるまで、ぴくりとも動かなかった。最後の生徒が出ていった、その瞬間――張りつめていた糸が切れたみたいに、彼女の膝がかくんと、わずかに落ちた。
「エレナ」
俺が支えると、エレナは、ハッとしてすぐに自分の足で立ち直した。
「……大丈夫です。お見苦しいところを」
「無理するな」
「無理では……ありません」
エレナは首を振った。震える声を必死に平らに均しながら。
「わたくしは、やっておりません。それだけは本当です。ですから――お兄様がいてくださるなら、わたくしは立っていられます」
信じきった目だった。
守らなきゃ、と思う。同時にチクリと胸の奥が痛んだ。
この子は、また俺に救われるのを待っている。
「それでいいのか」という小さな声がどこかでした。
――今は、いい。
今は、まず、この理不尽をぶち壊す。
「任せろ」
俺は、床のリボンを拾い上げた。
翼を広げた鷹は、もう嗤ってはいなかった。




