9話
ブライベリーに来て二度目の夏が訪れた。
青い芝生の上をよちよちと歩いていたロージーが、躓いて転んでしまった。ソフィーは泣きだしたロージーを抱き上げて、優しく上下に揺らした。
「ソフィー。暑くなったから入りましょう」
日傘をさしたヴィクトリアと彼女の息子のオリバーが、少し離れた所から手を振っている。
ロージーはオリバーと手を繋いで先に屋敷に入っていった。乳母がおろおろとしながら後に付いていった。
ヴィクトリアが声を出して笑った。
「二人はお似合いね。ほんと可愛いわ。二人が将来結婚したら、面白いと思わないソフィー?」
ヴィクトリアが目を輝かせて、はしゃいだ声で言った。
「……そうね」
ソフィーは消え入りそうな声で答えた。
父親の名前も分からないロージーが、ブライベリー伯爵の妻になれるわけがない。
ソフィーは自分の体を抱き締めながらうつむいた。
ヴィクトリアが首をひねりながらソフィーを見つめた。
「本当に暑いわね」
ソフィーはギクシャクと顔を手で扇いだ。
「うちの息子が気に入らないの?」
ヴィクトリアが急に顔をしかめた。やたらと本気になっている。
「ち、違うわ、ロージーは父親のことがあるから」
ヴィクトリアが目を見開いた。まさか、忘れていたのだろうか。
「……私は、その、気にしないもの」
もごもごとヴィクトリアは言った。ダニエルと親族はもちろん気にするだろう。
気詰まりな沈黙が流れた。
ソフィーは今もヴィクトリア達の領地にある巨大なカントリー・ハウスで世話になっている。
ヴィクトリアはソフィーと娘のロージーに何不自由ない暮らしをさせてくれた。
「ロージーの髪色は本当に綺麗ね」
ヴィクトリアがやけに明るく話題を変えた。
ロージーの髪は眩しいほどのブロンドだった。
私は黒髪だし、ロージーの父親もそうだったのに。
油断した隙に、脳裏に《《ライアンだと名乗った》》男の姿が浮かんだ。
ソフィーは頭を横に激しく振って彼の記憶を追い払った。
彼は既婚者か、詐欺師の類だったのだろう。
それが、ソフィーのたどり着いた結論だった。
あくる日、ソフィーは馬車鉄道に乗り、隣のフォーダムの町まで向かった。
停留所からは、田舎道が一本続いている。黙々と歩いてフォーダムの地主の屋敷に向かった。地主夫人に頼まれていた絵を持って来たのだ。
夫人のエラはダニエルの親戚だった。これまで度々顔を合わせてきた。
ソフィーは出迎えたエラに風景画を渡した。思いがけず、エラから謝礼金をもらってしまった。
お茶の誘いを丁寧に断り、屋敷から出た。ソフィーは空を仰ぎ見ながら、握りしめた銀貨を胸に押しあてた。
安定して絵が売れるようになったら、ロージーと二人で暮らしていけるかもしれない。
ヴィクトリアはいいと言ってくれていても、いつまでも彼女に頼るのは心苦しかった。
門を出ると、走ってきたピーターに引き留められた。
「ソフィー、母さんに用事があったんだろう?もう帰るのかい」
エラの息子のピーターが息を切らしながら言った。
「ええ、ロージーが待っているもの。またね、ピーター」
「ソフィー、ちょっといいかい?」
「なあに?」
ピーターは首の後ろを擦った。
「君もこっちに来てそろそろ二年になるね。伯爵達は親切だけど、世話になる身というのも、気を使うものだろう?」
「……そうね」
ソフィーはピーターから視線をそらした。
「それでずっと考えていたんだけど⋯⋯」
ピーターは咳払いをしたあと、胸を何度も叩いて、口を開いた。
「僕と、……僕と君が結婚したらどうかなって。君が僕のことをそんなふうに見ていないのは知っているよ。だけど、僕なら君に安定した暮らしをさせてあげられる」
ソフィーは激しくまばたきをした。ピーターの気持ちにまるで気が付いていなかった。
「ご、ごめんなさい。気持ちは嬉しいけど、貴方とは友達でいたいの」
ピーターの頭が徐々に下を向いた。
「……そうか、残念だ」
鼻を擦った。
「気が変わったらいつでも言ってくれ」
ソフィーは視線を泳がせた。
ピーターが手を軽く上げて屋敷に戻って行った。
ピーターは、穏やかでいい人だ。
彼はロージーのことも可愛がってくれている。
ソフィーはその場にしゃがみこんで呻いた。
ピーターのプロポーズを受けたほうがいいことは、頭では分かっていた。




