8話
季節は秋に変わった。
アトリエにはたくさんの張りキャンバスがある。
描きかけの肖像画も立てかけてあった。
以前ライアンをモデルに描いたものだ。
今日もよどんだ表情でソファーに横たわりながら肖像画を見つめた。
扉がノックされた。
「マーガレット。⋯⋯医者には診てもらいたくないと言っているでしょう」
「ソフィー。ヴィクトリアよ。開けてちょうだい」
ソフィーは体を起こして、重い足取りでドアに進み、鍵を開けた。
ヴィクトリアが入ってきた。
「ソフィー、いったいどうしたの。マーガレットが心配してるわ。様子がおかしいって知らせてくれたのよ」
「⋯⋯ヴィクトリア」
「エミリアの結婚式にも来なかったし、どうしてしまったの?」
『エミリアの結婚式』は今一番聞きたくない言葉だった。
ソフィーは唇を噛んで、涙を拭いもせずにぼたぼたと落とした。
「ソ、ソフィー!? 一体何があったの?」
ヴィクトリアがソフィーをのぞき込み、手を握った。
「ヴィクトリア⋯⋯。私」
「なぁに?」
ヴィクトリアが優しく答えた。
ソフィーは激しく首を横に振った。
「やっぱり、言えない」
ヴィクトリアが背筋をまっすぐに伸ばして、真顔になった。
「誰にも言わないわ」
ソフィーはヴィクトリアを見ながら、彼女の手を強く握りかえした。
ソファーに二人で座った。しばらく沈黙したあと、ソフィーはうつむきながら口を開いた。
「ライアン・カッセルと付き合っていたの……。彼にエミリアがいるなんて知らなかったのよ」
ヴィクトリアは目を見開いた。
「ライアンと?ほ、本当に?」
「エミリアには言わないで!お願い!彼女まで傷つけたくないの……」
ソフィーは声を詰まらせながら、ライアンとのいきさつをとりとめなく説明した。
ヴィクトリアはソフィーの話を遮らず、ただ聞いてくれた。ソフィーは話すほどに、闇に囚われていた心が解放されていくのを感じて、再び涙を流した。
「そう、……そうだったのね。ソフィー。つらい思いをしたのね。でも大丈夫、あなたは素敵な人だから。これからもっと素敵な出会いがあるわ。悪党、じゃなかった……ライアンのことは忘れましょう」
ヴィクトリアはソフィーを抱きしめた。
彼を忘れられるわけがない。
ヴィクトリアに、一番大事な話をしていなかった。
ソフィーは体を震わせながら打ち明けた。
「ヴィ、ヴィクトリア。わ、私、妊娠してるみたいなの」
「何ですって!?」
ヴィクトリアが急に抱擁をといた。
ソフィーは手を握りしめた。
ヴィクトリアはソフィーのまだ目立たないお腹を大きく口を開けて見つめた。
「確かなの?」
ソフィーは頷いた。
ヴィクトリアがひどい悪態をついた。
「ご両親とお兄さんはご存知なの?」
首を横に振った。
「言えないわ。ヴィクトリア、私赤ちゃんと二人で生きる」
「でもどうやって?」
ヴィクトリアが立ち上がった。
ソフィーは答えられずに腕を抱えた。
ヴィクトリアは顎に手を当ててソフィーの目の前をうろうろと歩いた。
「ねぇ。私達もうすぐ領地に戻るつもりだったの。ソフィーも一緒にブライベリーに行きましょうよ」
ソフィーはうろたえた。
「ヴィクトリアに迷惑をかけられないわ」
「これからどんどんお腹が大きくなって隠せなくなるわ。我が家で安心して子供を産めばいいのよ。どうするかはその後ゆっくり考えたらいいわ。なんならずっと居てくれても構わない。うちは広いから」
「だめよ」
「ソフィー、あなたを助けたいの。ダニエルと私の仲を取り持ってくれたでしょう?あのときのお礼をさせて」
ソフィーは手を合わせて唇に押しあてた。一人で生きる術を知らない。子供を世話したこともない。
「ヴィクトリア、……本当にいいの?」
ヴィクトリアは再び隣に座り、力強くうなずいた。
ソフィーはヴィクトリアの両手を取り、深くこうべを垂れて何度も感謝の言葉を繰り返した。
出立の日になった。
両親と兄には旅行に行くと手紙を書いた。荷物はあらかじめヴィクトリアに渡してある。時間を持て余し、ソフィーは早めに待ち合わせ場所のアトリエに向かった。
ライアンの定位置だったアトリエのソファーに座り、ソフィーはぼんやりと時間を過ごした。まだ、彼に騙されたことを信じられない自分が胸の奥にいる。
だから騙されてしまうのね。
ソフィーは苦笑した。
ヴィクトリアがアトリエまで迎えに来た。
「準備はいいかしら」
ヴィクトリアは二人だけなのに声をひそめた。
プライベリーに行くことは、マーガレット達にも秘密だ。
ソフィーはうなずいて立ち上がり、ヴィクトリアと抱き合った。
ふと、ヴィクトリアがライアンの絵に視線を向けた。
「ソフィー、これは誰の絵なの?」
「ライアンよ。……あまり似てないかしら」
自分で思うより、絵が下手なのかもしれない。
ソフィーは見えない所に片付けようと絵を持ち上げた。
ヴィクトリアが顔をしかめて唇に手をあてた。
「ライアンはもっとこう、ふくよかで、瞳もブラウンでしょう?」
「ライアンの目は鮮やかな青よ。体だって……」
ソフィーは肖像画の彼をじっと見つめて目をそらした。
ヴィクトリアが落ち着かなげに、体をそわそわと動かした。
「ソフィー⋯⋯あなたの会っていた人って、本当にライアンなの?」
ヴィクトリアがうわずった声で言った。
ソフィーは時間が止まったような気がした。
しばらく言葉が出なかった。
「そうよ、だって、彼がそう言っ……」
「彼の目の色はブラウンよ。間違いない。それに樽みたいな体をしてる」
ヴィクトリアの顔から血の気が引いている。
ソフィーはひどいめまいがしてその場にしゃがみこんだ。
ヴィクトリアの夫、ダニエルが呼びに来た。
ソフィーとヴィクトリアは沈んだ顔で、門の外にひっそりとに停められた馬車に乗った。
ソフィーは馬車に揺られながら、ダニエルにもライアンの風貌を尋ねた。ダニエルもヴィクトリアと同じことを答えた。
ソフィーは、彼がライアンでさえなかった現実を受け入れるしかなかった。




