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龍とたてがみとギャラクシア  作者: 雨野グッピー


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第23話 旅の再開と黄昏の葬儀

 コツンコツンと杖をつく音が、暗い地下の静寂を割っていく。


 黒衣の魔術師は己の進む先にある者達の姿をみとめると、にっこり口の端を上げた。


 上司の用が終わるのを待っていたのか、そこには暗がりの中に二人、魔術師の従者達が控えていた。

 その内の一人が、颯爽とその場を過ぎようとする魔術師に声をかける。


「……済みましたか」

「ああ。終わったよ」


 どこか張りつめた表情で尋ねた部下に、魔術師は事も無げに返した。

 まるで一食を終えたかどうか聞かれて、それに答えたときのよう。それくらいあっさりと、『何事』もなかったかのように。


 杖が灯す仄かな明かりに浮かぶその微笑に、問うた部下は少しだけ畏れを抱くようにその顔から視線を反らした。


 そして黒衣の魔術師……レオナルドは、二人の部下を従えて地下道を歩き出した。


 先ほど貴人を一人飲み込んだばかりの大穴は、相変わらずその後ろに黒々と口を開けたまま。

 しかし最早誰もその穴の方を振り返ろうともしなかった。


 これで、この城で為すべき全てが片付いたのだ。


 レオナルドの後ろをすっかり職業軍人の表情で付いていく二人の部下は、城に捕らえられた女に化けて牢に潜入していた二人だった。

 二人とも潜入のために着ていた女物の服を脱ぎ、今は軍服姿に着替えている。


 すっかり精悍な軍人の姿に戻った部下に、魔術師は前を向いたまま労いの言葉をかけた。


「長い間潜入ご苦労様。二人とも、手間をかけさせた」

「いえ。大勢で一斉に乗り込めば証拠隠滅のために女達が殺される可能性もありました。潜入による内側からの組織瓦解は理性的なご判断です。それに誰かが内部に侵入して女達が売り飛ばされていく先を突き止めねば、この地獄に終わりは来ないでしょうし」


 レオナルドの後ろを歩きながら、部下は苦々しげに答える。

 そして気を取り直すように顔を上げると、上司の背に告げた。


「『彼女』のご遺体は地下の棺から運び出しました。葬儀の用意もまもなく整います」

「……ああ」


 前を向いたまま、淡々と魔術師は返す。


 彼に付いてきていたもう一人の部下。しゃがれ声の美男が、上司に並びながら、まだ口紅の色の乗った赤い唇で囁いた。


「レオナルド様、実は一つお耳に入れたいことが。この辺りに常駐している閣下の兵からの知らせです」

「閣下の……」

「はい。レオナルド様が王都を出発された後行き違いで届いた報があるようで。何でも聖典が少女に持ち去られたときに、一緒に逃げた者がいたようです」


 眉一つ動かさず、魔術師は彼の言葉の続きを待つ。


「例の少女のことは、教会の封印に足を踏み入れた時点で報告が上がっていましたが、新しい報告というのは彼女が三日かけて封印を解いた後のことのようで、連絡が遅れていたらしいのです」

「その、一緒に逃げた者というのは?」

「貧しい格好をした、杖をついた女だったと」


 楓の杖の先がコツンと岩の地面のくぼみを叩く。そしてそのまま岩の隙間に引っ掛かった。


「レ、レオナルド様!?」


 真顔で杖につんのめって転びかける魔術師に、部下二人は慌てて手を貸す。

 そんな二人を柔らかく制して、魔術師は自力で体勢を戻した。


「ごめん、つい話に夢中になって」


 彼のかたわらに寄ったしゃがれ声の男は、不意にその横顔を視界に入れて目を見張った。


 ……当代最強魔術師が浮かべたのは、いつものドジと共に見せる優しげな困り笑顔ではなかったから。


 先ほど人を一人葬って素面で帰ってきたときとは明らかに違う。変わらず前を向いているが、どこか怪訝そうな表情だった。


 まるで何かが心に引っ掛かって抜けなくなったような。珍しい顔をしていた。


 そして。


「その女について、また分かったことがあったら報告してくれ」


 意外な発言に、些細な事実の報告をしただけのつもりだったしゃがれ声の男は、彼ほどの人物の心をとらえたものの存在に驚くのだった。





「ちょ、ちょっと待ってよ、ソル」


 情けない声とともに、へろへろと砂山に杖を突き立てた魔女は、前方を行く縮れ髪の少女の背に弱々しく手を伸ばした。


 その声に、ソルはようやく後ろを歩く魔女と距離が開いたことに気付いたのか、ふうっと微かに息をついて歩調を緩める。


 ……あんな大事件に巻き込まれた後だというのに、子どもは元気いっぱいで何よりだ。


 人さらいから解放された悪魔の城を後にしてしばらく。

 忌むべき悪魔城を離れ、ソルとピエドラの二人は街道に戻るため内海のふちの浜辺を歩いていた。


 絶壁の崖にくっつくような形で存在するわずかな砂浜で、スタスタと自分の先を行く少女を追いながら、魔女は杖を支えにしてなんとか足を動かす。

 ガッガッガッガッと、体重のかかる杖の先が砂浜を削っていった。


 ……国の中央から討伐隊が派遣されてくるような人買い組織の支配する城から無事に脱出したんだから、天才魔術少女ももう少し疲れてくれてもいいのに。

 普通ならあれだけで一生分の生命力を使い果たすところなんだから。


 見ろ。その背に付いていくこのへろっへろっの魔女を。

 今になって体中の筋肉が悲鳴を上げている。思い返せば、機械人形から逃げ続け、自分でも信じられないほど走ったり跳んだり叫んだりした。


 ここ最近、自警団から逃げると言っても隠れたり潜んだりばかりで、あんなに至近距離で追われ続けるなんてことがなかった。

 廃屋の軒で三角座りしてばかりのガチガチの体で鉄の巨人と追いかけっこしたのだ。これは数日は確定で筋肉の痛みに苦しむだろう。


 浜辺に打ち上げられた遭難者のような格好で歩く魔女に注ぐ太陽は水平線まで落ちきり、もうすぐ夜の訪れを告げようとしている。

 杖をつく腰の曲がった影が、少しずつ薄暮の闇と一体になっていた。


 ……長い一日だった。

 しかし旅はもはやこの砂浜だけではすまないことも、魔女はよく理解していた。


 色々あったが、ピエドラはとうとうソルのもとに戻ってきてしまった。危険な聖典を王都へ運ぶ旅の道連れとして。


 ザザーンと、寄せる波の音にため息が重なる。


「はあ……。ホントに、何やってんのよ、あたしは」

『お前さんにはその流れが来ておったのじゃ。まさに運命じゃな』


 ソルとピエドラの間で宙返りしながら、いつの間にか現れた聖典の番人の老人が呟く。

 ……その流れって何だ。


『どんなに渦の外側にいるように見えても、段々と大きくなるその潮流に巻き込まれずにいられる人間はおらぬ。お前さんは自分の周りの景色にようやく気付いただけのことじゃ』

「なぐさめてくれてるんだか何だか知らないけど、今はどんな話を聞いても気が楽にならないわ。結局渦には巻き込まれてるんだから」


 杖に体重を預けたまま、ピエドラはじっとりした目で老人に返す。

 ふと、魔女と精霊の不毛なやり取りの蚊帳の外にいた少女が呟いた。


「ねえ、ピエドラ」

「あん? 何?」


 突き立てた杖に乗せた顎で砂浜に杭を打ちながら、魔女は相変わらずへろへろと少女に聞き返す。

 その姿に視線もくれぬソルの質問とは、城にいたあの青年魔術師のことだった。


「城にいたあの黒いローブの魔術師と知り合いなの? 親しそうに話してたけど」

「親しくない。この辺の森で偶然会ったのよ。未だにどこの誰だかよく分からないわ。初めて会ったときも正体ぼかしてたし」

「そう……」


 素っ気なく呟くソルに、うなだれたまま魔女は軽く首をかしげた。


 何だ?

 誰が向こうから来ても無敵の彼女らしくない。あの青年のことが話題に上ると若干雰囲気が張り詰めるような……。


 あの青年と再び鉢合わせたことはピエドラにとっても驚きだった。

 ソルから聞いたが、彼は悪魔の城の地下に落とされたソル達を助けてくれたのだという。その正体は、何でも王都から派遣された国仕えの魔術師だとか。

 話を聞く限り、役人にしてはかなり親切な人物のようだが、彼と何かあったのか?


 今も、もう日が暮れるというのにやたら先を急いで、まるであの城からさっさと離れたいとばかりに砂浜を突き進んでいく。

 まあ、野宿は確定なのだからこのままどこまで行こうとかまわないが。


 考えながら杖を突きつつせっせと砂浜を歩くピエドラに、前を行きながら再びソルは尋ねてくる。


「ほんとにお城はピエドラが壊したの? 爆発でも天変地異でもなく、魔術で……?」

「壊すつもりじゃなかったけど……まあ、そうだと思うわ。ピンチで力が入っちゃったみたい」

「……そうだと『思う』?」

「ええ。なんか咄嗟にものすごい魔術が出たけど、あれはきっとあたしの力じゃないのよ」

「……?」


 要領を得なかったのか、ソルは今度は立ち止まってピエドラを振り返る。

 そんな少女に、ピエドラは自分の杖に結んだ銀製の龍の飾りを示して見せた。


「ほらこれ、マイテの婚約者の商人にもらったの。あんたを娼館に預けたっていう」

「フォンス兄さんから……」

「この龍の飾りのお陰でやっとまともに魔術が使えるようになったのよ。今んとこ風の魔術だけだけど」


 ソルは黙ったまましばらくその銀色の飾りを見つめる。

 そして少しだけ首をかしげた。


「……魔術が使えるようになったのは、ほんとにこれを付けた後?」

「ええ。そうよ」


 ソルはなおも無言で龍の飾りを見つめていたが、そのうち口を引き結んだまま前方に向き直った。


 ……あの青年のことといい、さっきから何だかやたら言葉の先を濁すような。

 まあいいか。


 波の寄せる薄暮の海岸を、少女と魔女はしばらく無言で歩いていく。


 改めて自分でも思うが、杖を両手でつき腰が曲がった状態で砂に足を取られ、なんと脆弱な姿なのだろう。

 こんなのと一緒に聖典を王のもとへ運ぶ旅に出るのだ。

 ソルも色々と不安なのかもしれない。


 ピエドラ自身でさえ今でも思う。きっとこの旅はうまくいかないと。


 悪魔の城を壊したときわずかに高揚したピエドラの心は今ではすっかり冷め、空に薄くかかり始めた雲に陰らされるように現実を見ている。


 どんなに疲れていても、もう近隣の村にさえ後戻りできないのだ。


 悪魔の城の一件でずいぶん時間をとられた。イクリプスの追っ手の黒マント達はもう、すぐ後ろまで迫ってきているだろう。だから南の村や娼館街の方には絶対後戻りできない。


 古城にはびこる悪魔の一団からは解放されたが、それ以前に聖典の盗っ人として追われる身だ。

 これからもきっと、一ヵ所に留まってゆっくり体を休めようということにはならないだろう。


 娼館の館長の一件で肝に銘じさせられたが、悪気があろうとなかろうと権威に脅された人間は他人を売るのだ。

 イクリプス領で聖典ギャラクシアを抱えて歩く限り、安全な場所などないし頼れる人もいない。……逃げ続けなければならない。

 考えただけで悲しくなってくるほど、過酷な道のりだ。


 もしこの話が誰かに記録されたり噂されたりして人々の記憶に残ったら、この魔女の無謀な旅は百年後まで笑い話になるだろうな……。できれば百年後に笑いながら聞きたかった。


 ここから南東に位置する王都は遠く。まだ幾多の関がソルとピエドラの前には待っている。


 もしピエドラ一人だけだったなら、その関の一つに着く前に人生が終わるだろうが、この少女と一緒ならどこまで行けるだろう。


 そうだ。今は進むしかないのだ。

 老人の言う通り。結局ピエドラは自分から危険な少女のもとへ戻ってきてしまったのだから。


 前方から、後ろ髪を揺らすように風が流れていく。

 ふと、魔女は今来た道を振り返った。


 ……マイテにはきっと、悪魔の城が壊滅したという知らせで分かってもらえるだろう。

 無事だとは伝えられないが、まだピエドラが死んでいないことは伝わるかも知れない。


 唯一の心残りを振り切って、魔女はまだ光を残す海を眺める。今はそれだけでいいやと。


 もうすぐ暮れは夜に変わる。

 この季節故の長い日も、ようやく闇の帳を下ろそうとしていた。


 ……そのときだった。

 今はもう遠い浜の向こう。悪魔城の位置する崖の方から、その光が現れたのは。


「何……あれ?」


 杖を支えにしながら、魔女はその方向に目をこらす。


 時々岩影に遮られながら、それでもその赤い光は海上を揺らめき、沖へ向かっていくのだ。

 そして、それが暗い波間に揺れる炎だと、ピエドラは闇に慣れるまで目を凝らし続けてやっと認識したのだった。





 緩く巻いた淡い色の髪が、海風に揺れる。

 砂浜に杖を立て、レオナルドはただ目の前に広がる景色を見ていた。


 古城の周りに吹いていた不思議な風は今や弱まり、橙と闇の狭間の色に染まる内海の岸には穏やかな波が寄せている。


 その音を聞きながら、青年はそっと青い瞳を伏せた。……舟を送り出すのに、こんなにいい日はあるだろうかと。

 そうして彼は、残る太陽の光を浴びていた。

 

 もうすぐこの狭間の時間も終わり、夜がやって来る。

 ふと見上げると、すぐ側の崖の上に構える古城の上には薄い雲が流れていた。雨は降らないだろうが、これは少しばかり早く辺りが暗くなるかもしれない。


 しかしそれもいい。その方がこの船出には映える。


 そして。

 青年の立つ、内海の崖がちな岸にわずかにせり出した砂浜には、十数人ほどの人々が小舟で集まり始めていた。


 浜に着いた人々は、各々ランタンの明かりを掲げ、闇の静寂(しじま)へと向かう内海のふちに上陸してくる。

 その黄色い明かりが集まって、砂浜の上には大きな光の塊ができていた。


 人々の大半は悪魔の城にいた青年の部下達だったが、それに混じってこの辺りの村人風の人も何人かいる。

 

 彼らは『彼女』を弔うために、今日ここに集まってくれた人々だ。


 そして。砂浜に集まる小舟のうち、一隻。人は乗っていないが帆をしっかり張った小舟を繋いでいる舟があった。


 その繋がれた無人の小舟が、青年の部下達によってゆっくり浜へと寄せられる。

 小舟の中には、人の代わりに木製の簡素な棺が乗せられていた。


 その棺の方へ、青年……レオナルドはゆっくりと杖を置いて近付いていく。

 青年をこの地方で最初に出迎えた老夫婦が、ランタンの明かりを灯して側で見守っていた。


「――お預かりしていたものはここに」


 恰幅のいい老亭主が、人の腕で抱えるほどの布張りの箱をレオナルドに差し出す。

 

 「ありがとうございます」と受け取ると、青年は小舟に乗った棺の蓋を開き、老人から渡された箱の中からあるものを取り出した。


 ……あの日、王城の自室から持ち出した朽ちかけの頭蓋骨。その落ち窪んだ二つの穴が、再び魔術師を捉えていた。


 レオナルドはそれをあるべき所に置くために、小舟の上の棺へと体を向ける。


 棺の中には仰向けに腕を折る姿勢で、首から上のない、白い服を着た人骨が眠っていた。

 青年が取り出した頭蓋骨と同様、時間の経過を思わせる変色をしていたが、着ているものは未だ綺麗で骨に欠けもなく、丁寧に安置されていたのが分かる。


 骨だけになってもどこか静謐な雰囲気を感じさせる棺の中の人物の、そのあるべき所に、青年はそっと頭蓋の重さを預けた。


 ……やっと、首と胴がつながった。


 青年は……棺の中の人物の弟子は愛おしそうに目を細めると、決して返事の返らぬ棺の中に何事か囁く。そして静かにその蓋を閉めた。


 レオナルドが棺の側を離れると同時に、砂浜に集まった人々は手にしていた花を小舟の中に満載する。

 閉じられた棺の蓋の上には、昼間レオナルドと一緒にいた子ども達が編んでいた小さな花輪がたくさん載せられていた。


 小舟が花でいっぱいになるのを見届け、魔術師は楓の杖を握り直す。

 そして海風に乗せるように、囁くように唱えた。


「炎よ」


 彼の一言とともに、小舟の中の棺に炎が灯る。

 砂浜に集まっていた男達が、火の着いた小舟を海へと押し出した。


 続けて、魔術師は杖を掲げ風の魔術を唱える。

 海上から浜へと吹いていた風が海へと出ていく風に変わり、棺を乗せる小舟の白い帆がいっぱいに張った。


 そして。波に運ばれ舟は沖へと。

 二度と帰らぬ刹那の航海を始めた。





 崩れた古城を戴く崖の下から出てくる赤い光を、離れた砂浜に立つ魔女は静かに見守っていた。


 あれは、帆を張った小舟……?


 赤く船体を燃え上がらせながら、その不思議な舟は滑るように沖へと出ていく。

 その光景を、ピエドラは思わず呆然と眺めていた。いつの間にかソルも足を止め、魔女と同じ方に釘付けになっている。


 一瞬ランタンの火が移って漁師の舟が火事でも起こしているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。


 赤々と照らされる船上に人の姿はない。ただ無人の舟が燃えているのだ。


 本当に不思議な舟だった。

 漕ぎ手もないのにただ真っ直ぐ、まるで舟自体が意思をもっているように、ただ沖を目指して進んでいくのだ。


 ピエドラにはしばらくその光景が何なのか不明だったが、その船底から炎に照らされ熱で浮き上がってくる花びらのようなものを見てとったソルの呟きで、ようやくあれが何かを知った。


「船出葬……」

「船出葬? あれ、お葬式なの?」

「ええ。魔術で火をつけた舟を沖に流す葬儀。海の上で舟は燃えて灰になるの」

「へえ……」


 そのまま少女は、ゆっくり波をたゆたう小舟を神妙な面持ちで見つめる。ピエドラもその側で舟を見守った。


「あの舟、外海に出るの?」

「それまでに燃え尽きると思う。あの火の勢いなら、内海からは出られない」


 ソルの言葉に、ピエドラは改めて舟の行く先を眺める。

 薄い雲が覆って星のない夜に、燃え上がる小舟の炎だけが水面に映って揺らいでいた。





 風が雲をさらい、黄昏の空に薄く張り付けていく。それが残る陽を遮って、青年の予想通り、少しばかり早く夜を連れてきていた。


 その薄闇の中で、彼は一心に戻らぬ舟を見つめていた。

 人々が頭を垂れて祈りを捧げる中で、ただ一人。杖を片手に真っ直ぐ見ていた。


 もう先ほどの彼の魔術はおさまって、風は向かい風に戻っている。それが魔術師の黒いローブをなびかせた。


 空は薄闇に覆われていたが、一時的な突風の吹いた古城の上だけ雲が切れたのか、その隙間に地平線に残された赤い夕陽の光がのぞいている。まるで空がひび割れて、そこから色が滲んでくるように。


 奇怪な空模様になったが、それでもこの船出にふさわしい気がした。


 この身と彼女が歩んだ道は、星に祝福され月に慰められるような天使の道ではなかったから。


 紅く割れた闇の隙間を見上げ、青年は一人呟く。


「……先生。やっとここまで来ましたね」


 見送る舟は今や遠く。深紅に炎を上げながら、もう二度と岸へは帰らない。


 ……十二年という時を経て、ようやくこの景色までたどり着いた。


 ようやくこの景色までたどり着いたから、ここに立てば心はもう少し動くものだと思っていた。


 しかし最早うっすらと瞳を覆う涙さえ浮かんでこないのは、もうすべてが定まってしまったからだろうか。


「すべて上手くいっています。あなたの描いた夢に、もうすぐたどり着きますから……」


 見つめる先で、いよいよ終焉を迎える小舟の帆の全体に火が回る。


 紅く割れた空と浜辺に並ぶ黄色いランタンが、すべてを見守っていた。


 自らが着けた火によって内海の途中で燃え尽き、灰になっていくその姿を、瑠璃色の瞳は舟が沈む最後の瞬間まで見守っていた。

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