第20話 追及と墜落
海を背にする古城の大きさにも驚かされたが、その下に広がる地下道も実に壮大なものだった。
こつんこつんと進む三人の靴音が、長い間静寂の中にあったことを思わせる暗い地下道に響く。そして岩の割れ目に次々反響するその音が、まだまだ続く長大なこの道の広がりを感じさせた。
この城に巣くう人さらいを一掃しに来たと言う魔術師の青年と不可避の出会いを果たしたソルとローサは、城の構造に通じているという彼の先導で、城の出口を目指してさらに深く地下道へと入り込んでいた。
一本道と思っていた横穴は次第に枝分かれし、高低差を作り、行き止まりや陥没した跡を所々に散りばめ、進む者の生命すら危うくさせる。
その広がりに、その深さに、進めば進むほど二度と出られないのではないかという閉塞感に囚われていく。歩む者の内にある気力と希望を、少しずつ削っていくかのような迷宮だ。
上層は人の手で石を積んだ遺跡のような造り、下層は天然の洞窟を活かしてこの地下道を構成しているらしい。
人工的なレンガの壁の部屋を通ったかと思えば、下って岩の隙間を行く。それを繰り返さなければ抜けられない、手の込んだ地下道だ。
いずれにしても光の魔術なしでは一寸先も見えぬ暗がりで、ソルは楽しげに言葉を交わす青年とローサの数歩後ろを歩いていた。
「それじゃあ、君たち自分で牢を破ってここまで来たのか!」
「うん。ほとんどソルと他のお姉さんのお陰だけどね」
「それでもすごいよ。牢番に立ち向かうのは恐かっただろうに……」
弾む会話が、迫る両脇の岩肌に響く。
ローサは無理矢理この悪魔の城に連れてこられてから、ようやく確固たる自由を知らされたのだ。救いの手を差しのべてくれた青年はまさに救世主だろう。
青年も青年で、貴族的な高慢さや庶民への軽蔑は一切ない。むしろ幼いローサとの会話を心から楽しんでいるようだった。
彼を『敵』と認識してしまったソルにとっては、他愛ないその会話は永遠のように長く感じられたが。
……ローサを、とんでもない道に引きずりこんでしまっただろうか。
まさか最後の最後でこんな怪物を引き当ててしまうとは思わなかった。
相変わらず青年の方から漏れ出す魔力とその強さに触れて、縮れ髪の少女は止まらない思考の中にいた。
いくら手元に魔導書があろうが、これでは一切心休まるときがない。
そうしてひたすら無言を通すソルのすぐ前で、何かに気付いた様子のローサが大慌てで叫んだ。
「お、お兄さん、絞められてる! 絞められてるよ!」
「ああ、ホントだ」
おっとり声を出す青年が、杖を持つ反対の手をブンブン振る。
しかしそんな悠長にしゃべっている場合ではない。
そこには結構な太さの大蛇が一匹、ギチギチと勢いよく彼の腕を絞め上げていたのだから。
……よく今まで気付かなかったものだ。
噛まれる直前で、青年は何とか蛇を振りほどく。なかなかの太さを持った黒まだらの尻尾が、シュルシュルと岩影に消えていった。
「危なかったなあ。気付いてくれてありがとう」
「う、うん……」
ばつが悪そうにしながらもどこか呑気に頭をかく青年に、ローサも戸惑いの表情を浮かべる。
一行は再び岩が剥き出しの横穴へと踏み込んでいたのだが、この横穴、どこかの地下洞窟とつながっているのか、数は少ないが生き物が住みついているようだった。
変な所に手をついたのか、青年は地下道に巣くった大蛇に、知らない内に腕に巻き付かれていたのだ。
……彼が同様のドジを踏むのはこれで三回目だ。
上から落ちてきた巨大な具足虫に頭をかじられたり、地べたにいた巨大ガザミのはさみに足先をねじ切られかけたり、ここまであらゆる意味で肝が冷えた。
「……」
お兄さん、大丈夫? と、不安げに聞くローサの後ろで、ソルは改めて彼を観察する。
……一体どういうつもりだ?
確証はないが、多分彼にはソル達に話していない大きな秘密がある。
しかしその秘密のために少女達に何かするつもりなら、最初に会ったときにできたはずだ。姿を見られた口封じに手を下すことだってできたはず。
だから出口があるという地下道の先まで案内してくれるという彼の言葉に嘘はないと思う。ソル達を殺すつもりならここまで地下深く潜る手間をかける必要がない。
しかし次に引っ掛かかってしまうのは、その正確な道案内そのものだ。
この青年、いくら何でもこの城に通じ過ぎている。
ドジは踏むが地下を進む足取りは確かで、明らかにこの地下道に何回か足を運んでいるようだった。
……そうだ。だからこそまだ油断ができないのだ。
ドジが演技なのか本気なのかは知らないが、やはりこの人物は闇の世界の一端に足を突っ込んでいる。
自分の斜め前に見える黒い背中を追いながら、少女は小さく息を吐く。
その頭には、中庭に隠された階段を開くため拾い見た、あの断片的な記憶が甦っていた。
城の中庭で過去にあの階段を使用した人々の記憶を、降り積もったわずかな魔力を介してソルは見た。
階段を開くための手順だけ見られれば上等と思っていたが、あそこに残されていた記憶はそれだけではない。
神経を集中させる目蓋の裏に見た、所々紗がかかる不鮮明な過去の澱。
その中に、大きな麻袋を担ぐ顔も見えぬ者達が、あの秘密の階段を下っていく様子が見えた。
城の地下に、大人数をかけて何か荷物を運び入れている記憶だった。
それだけなら何とも思わない記憶だ。
……しかし彼ら一人一人の担ぐ、ずっしりとした袋の端から垂れる赤。
水よりも重くどろりと滴るそれは、灰色の記憶の中にそこだけ鮮明に色を残して。
だからローサには話せなかったのだ。
ソルが見た記憶が確かなら、この先には『ある』。この地下道から二度と出られなくなった者達を大量に捨てた場所が、どこかに隠されている。
それだけで、相当闇の深い一家がこの城を治めていたことが分かる。
そしてその一家に、この青年は縁があったというのだから、疑いも警戒心も抑えきれないというわけだ。
青年はソル達に、自分はたまたま人さらいに利用されたこの城の以前の持ち主と懇意であったと説明した。だから城の墓地への墓参りが念願だったのだと。
……しかし果たしてそれだけか。
懇意なら城の秘密の地下道にも通じているなんてことがあるだろうか。こんな闇の巣窟みたいな場所に。
どころか彼は、この場所をまるで自分の家の庭かのように迷いなく歩いていくのだ。
一家と懇意だったというより、まるで家族の一員だったという方が合っているかのように。
「……」
元の魔力は相手が少し上……。いや、かなり上……。
この男が得意な魔術は何だ。弱点は何だ。
そんな算段ばかりが頭をよぎる。
よぎるが、それはすべて、今の自分には勝機がないという答えに結び付くのだ。
魔導書はボロボロ。二度も記憶を拾うという集中力のいる作業を通して仕掛け扉を開いた上に、大男と魔術合戦になったお陰で、魔力も気力も消耗している。
今は、この男と魔術の撃ち合いになっても勝てる見込みがない。
逃げられないならせめて、もし何かあってもローサを守れる位置にいた方がいい。
そうだ、今はそれが最優先の……。
「このお城の前の持ち主は、どんな人だったの?」
思考の海に沈んでいたソルの前で、まさに今気掛かりだったローサが口にした言葉は、まるで目覚ましの鳥の声だった。
わずかに目を見開きながら、ソルはばっと彼女の方に顔を上げる。
直前の会話を聞いていなかったが、どうやら前を行く二人の会話は、人さらいに占領される以前のこの城の持ち主のことに及んだらしい。
ローサも好奇心旺盛な年頃だ。自分を閉じ込めていた怪しい城のことを聞くなという方が無理だろう。
何を言うか考えているのか、青年は少しだけ黙った。
……この城の前の城主は何者か。
何の気なしの、子どもの質問だ。しかしその城主と懇意だったという青年の正体の核心に近付く質問でもある。
先ほど大蛇に巻かれた腕をさすりながら、彼は少しだけ上を向いた。
そして思いつきのような少女の質問をはぐらかすこともかわすこともなく、こう答えた。
「もとはこの地方の領主を務めていた、貴族の一家が住んでたよ。由緒ある大貴族で、貴族としての格式や伝統を重んじる、とても素敵な家族だった。でも……」
青い瞳が天を向く。柔らかい髪が、目元から額の際へと落ちかかった。
「人を買う貴族の例に漏れず、貴族というのは己の城に何らかの秘密を抱えているものだ。……この城の前の持ち主は、この国の権力構造を保つ役割を長年担ってきた者、と言えばいいかな。だから多少、城に珍しい細工がしてある」
ローサはなおも興味深そうに彼へ視線を向けていたが、そこまで話して、青年は続きを渋った。
「これくらいで勘弁してくれ。これ以上は君たちに聞かせられるような話じゃない」
「……前に住んでた人も悪魔だったの?」
「ソ、ソル?」
会話に加わるというか、後ろから噛みつく格好で話に入ってきたソルに、ローサが驚く。そりゃあ一見親切そうな青年に、相棒がいきなり食ってかかったら驚くだろう。
口にしたソル自身、焦る自分の唇から出たその言葉に驚いていた。
しかし今は少しでもこの青年の正体に迫りたい。せっかく晒してくれた尻尾の一端を、もう少したどりたかった。
青年が城主一家と懇意だったというのなら、さっきの煽りは相当効くはずだ。
ソルの言葉に、美貌の青年は顔半分だけで振り返り、少しだけ悲しそうに整った眉を寄せて。
そして一瞬間を置いて、ほどなく困り顔で先を続けた。
「業の深い一族だったよ。裏で相当の汚れ仕事を請け負ってきた。周りからは権力の犬だ、なんて呼ばれて」
「……」
「しかし君の言うような『悪魔』はもうここにはいない。汚れ仕事を担う者は皆、いずれ体よく捨てられる運命にあるものだからね」
「この家も例に漏れず。だから没落したんだね」
もう二十年も前の話だ、と青年は呟く。
「一家には、聡明で魔術が得意な、美しい一人娘がいた。彼女は当時、異端の女性の宮廷魔術師として王都で働いていた」
すごいね、とかたわらで呟いたローサに、青年は少しだけ嬉しそうに視線を下げる。
しかし宮廷魔術師を輩出した一族の栄華は続かなかった。
この城の城主はあるとき、汚れ仕事をこなすことで貢献していたはずの王政により、ある罪の告発を受けたのだ。
つまりは政敵の計略にはまり、王政に切られ、断頭台まで追い込まれた。
「優れた魔術師である娘の懇願により、城主は極刑をまぬがれた。領主の座は当時日の出の勢いだったイクリプスに渡されたが、城から出ぬことを条件に彼らはここで暮らすことを許された。しかし、とても心穏やかな暮らしはできなかっただろう。……そして何年か経ったある日、更なる悲劇が一家を襲った」
「ひょっとして、魔術師だった娘さんって……」
何かに気付いた様子のローサが口をはさむ。ソルもまた、青年が言わんとしている『更なる悲劇』の内容を察していた。
牢で会ったときしゃがれ声の人物が言っていた、十数年前に王都で刑死したという魔女の話を思い出す。
その亡骸は、彼女の家族が住んでいたこの城に葬られたと言っていた。
それこそが、今話に出てきた、宮廷魔術師だったという娘か。
「ああ。この城の一家が没落という憂き目をたどった後、しばらくして彼女は無実の罪で処刑されたよ。家という後ろ楯を失って、かなり厳しい立場に立たされていたからね。……腕は確かで弟子も多く、宮廷魔術師としては申し分なかったが、それだけでは王城で生き残れなかった」
「……」
「彼女は、この城の城主の最後の希望だった。だがそんな、自分達を守ってくれた娘が志半ばで亡骸となって帰ってきたんだ。しかもそれが濡れ衣を着せられたためとあっては、城主もやりきれなかっただろう」
刑死した娘の体を城に葬ってしばらくして、城主の一家は誰も知らぬ内にこの世から姿を消したのだという。
その後、怨念を引きずり城をさまよう魔女の霊の噂が広がり、噂は誇張に誇張を重ねられ、ここは誰も近付かない悪魔城となったのだ。
湿った空気を留める暗い道の真ん中で、しばらく一同は沈黙する。
結局青年は最後まで話した。
話の内容は彼の正体と直接つながるものでもない、大衆の興味を引く昔話といった感じだったが……。
相変わらず涼しげに数歩先を行く黒衣の魔術師の後ろで、縮れ髪の少女は黙考する。
彼がこの城の過去を語る口調……少し引っ掛かるものがあった。
何年も前の貴族社会の醜聞を語るにはあまりに興がなく、他人事を語るにはあまりに無関心すぎる口調だった。感情を殺し続けて、それに慣れきったような。
だからやはり彼が、その話に出てくる誰かと深く関係しているということは察せたが、ソルにそれ以上のことを詮索する余地はなさそうだった。
どこか冷たい空気を纏った黒衣の背中越しに、最後に彼はこう呟いた。
「……彼女はある男の讒言のせいで、首を取られてしまったんだ」
話はそこで打ち切りだった。
青年の鳴らす長靴の音が目の前で止む。
一行は狭い地下道を抜け、大きく開けた空間へと差し掛かっていた。
「うわあ……ここすごいね」
青年の後について中に踏み込んだローサが、辺りを見回して感心したように呟く。
光の魔術に照らされる、球形に岩肌をくり抜いたかのように丸い天井。平坦に広がる地面。
地下に空いていた自然の空洞を利用したものか、向こう側の壁が照らしきれないほどの大きさを持った、岩のドームだ。
そして目をこらせば、その岩のドームのあちらこちらには、白く複雑な模様や紋、古代の数字が書かれているのが見えた。
固そうな地べただけではなく、岩の壁面にもびっしり、古代の文字や円陣が刻まれている。
描いてある紋の感じ、ここは多分、大昔の魔術師達の修行や儀式に使われていた遺跡だろう。
その光景に思わず一行の先頭に立って洞窟内を見渡すソルに、青年が並びながら呟く。
「約千年前の遺構の一部だ。この城は、その遺構の上に建てられている。太古のときから、ここを治める一族は魔術と関係が深かったんだ」
彼の言葉を背に、中央の一際大きな魔法陣に興味を引かれたソルは、一歩一歩洞窟の真ん中へと進んでいた。
そして、
「魔力増強のための儀式の跡……」
自分の先に待つ、固い地面に描かれた大きな魔法陣を見てそう呟いた。
白く薄く欠け、しかし未だしっかりとその場に残る紋の持つ意味を察し、思わず魔法陣の中まで踏み込んでしまう。
消えかけの数式が囲む魔法陣の真ん中の円。それは恐らく供物や……あるいは生け贄を置いていた魔法陣の中心だったのだろう。
贄を置く真ん中の円を中心に、力の分配を受けるべき使徒の円へと、線が走っていた。
……これは多分、闇の儀式の跡だ。強大な魔力を持つ何かや誰かを犠牲にして、己の魔力を増強するという目的を満たすための。
しゃがみ込んで熱心にその場を検分する少女の背に、靴音が迫る。そして後ろから黒衣の魔術師の声がかかった。
「愚かだと思うかい? 何百年も、何千年も前から、魔術師達は魔力を渇望してきた。例え何を贄にしようとも、手に入れようとしてきた……」
空気が冷えたのは一瞬だった。
後ろに立たれたとき、緩んでいた緊張の糸は再び張りつめた。
彼の声は、先程までしていた世間話の、十分の一も温もりのない声だったから。
そして、
「どんなことをしても、選ばれたかったんだ」
何の感情もない、ただの音のようなその声に、少女はしばらく何を言われたのか理解できなかった。
ただ自分の背に、今までにない凍てついた双眸が向けられるのだけが分かった。
「……君は、選ばれたんじゃないのかい?」
その囁きに、完全に影を縫いとめられた。
ゆっくり立ち上がって、しかしソルはそのままその場に固まる。彼を振り返ろうにも、体が言うことをきかない。
その状態のまま、ソルの持つボロボロの魔導書に相手の視線が送られるのが分かった。
だから、
「そうか。そうだったのか……」
呟きながら、思わず唇の端が上がってしまっていた。
間抜けだった。
彼が意図して自分をここに立たせたことを、まさにその場に立たされてから気付いたのだから。
少女の足は完全に『贄』の陣の中に。かつて魔術師達が力を得ようと生け贄を置いていた円の中におさまっていた。
……先程この城の秘密を一つ聞き出せたことで、完全に気が緩んでいた。
ソルの言葉に真実を明かしてくれたこの青年に、道案内以上の意図はないと少しだけ安心してしまったのだ。
黒衣の魔術師は言葉を続ける。
「君の持ってる魔導書、この城の中で手に入れたものだろう? でもそれは本来の君の魔導書ではない。もっと格の高い魔導書が、君の手の中にはあったはずだ」
そのまま青年はじっと、じっとソルの背に視線を注ぐ。
二人の間に目に見えぬ緊張という形で張っていた氷が、今まさに崩れさった。
思えば彼は最初からそうだった。
石室に現れたとき、「見つけた」と彼は言っていた。一体何を? ソル達を襲った大男を? 失念していた墓の場所を?
……もっと疑問に思えばよかった。
青年の探し物は、確かに彼の足下にあったのだ。
お下げの少女を背にかばう、八歳の縮れ髪の少女という形で、存在していた。
背中に突き刺さる視線に、そのまま絡めとられていくようだった。
『もっと格の高い魔導書』の存在を、それをこの身が持ち出したことを、この男は知っている。
今までの道のりも、世間話も、すべてここへ着地するための前ふりだった。
彼は確信を持っている。この身が何者であるか知っている。
……探していたのだ。ソルを。
聖典ギャラクシアを奪った幼い少女を。
瑠璃色の瞳はこちらへ注がれたまま。
ひんやり首筋を伝う汗だけが、止まってはいない時間の流れを示すように。
一瞬すべて諦めかけて……しかしソルは何とか、今持っているボロボロの魔導書に凍える指をかける。
こんな相手と対面することになるなら、もっと魔力や気力の使い方に気を付けるべきだった。
正直、過激な噂だけで魔物など一切出ないこの城のことを侮っていた。
しかし悪魔はちゃんとここにいたのだ。
今まさに、この身は悪魔城の本物の悪魔の牙の前にいる。悪魔が仕掛ける狩りの、たった一人の獲物として。
……振り向けばいよいよ最後か。
そう思いながらも、魔導書を構え、すべての恐怖を振り切ってソルが青年の方を向こうとした……そのときだった。
「ソル!」
後ろから、何かに口をふさがれたようにくぐもったローサの声が聞こえた。
その声に振り返ったソルと青年は、その光景を見てお互いまだ冷静にしながらも、次第に目を険しくさせていった。
「……!」
「……油断したな」
お下げの少女を人質にとる、全身に黒く煤を纏った大男。
火傷だらけの太い腕にローサの顎を乗せ首を絞め上げながら、前方にいる青年とソルを睨んでいる。
その杖がローサの頭に突き付けられるのを見て、二人の魔術師はそれぞれ己の手にしていた魔導書と杖を捨てた。
徐々に水平線へと傾いていく夕陽が、古城の尖塔を照らす。
その上で、みすぼらしい格好の魔女と、機械人形に乗った小男は今まさに戦いの最中にあった。
……魔女の圧倒的不利を呈す、かなり一方的な戦いの。
小男が放った炎が下から吹き上がって、ピエドラの頭の上をふさぐこの塔の屋根の裏を焦がす。
吹き上がる火炎放射は止まらない。
側面に空いた細い窓から、逃げ場を失った炎が外へと抜けていく。
ピエドラは反対側の窓から半ば身を乗り出す格好で、落下の恐怖とともに相手の攻撃を耐えていた。
相手の炎の魔術を増強してしまう、風の魔術はもう使えない。しかしこの場で有効な水の魔術も、ピエドラに使えるのは水鉄砲程度のものだけだ。
立て続けの炎の攻撃が、ピエドラの周りの空気の温度を変えていく。
それを一息吸い込むごとに喉がひりつき、頭がボーッとしていった。
極めつけは……。
ピエドラが熱にとらわれるその下で、真っ赤に燃える機械人形が、塔の頂上を支える柱に手当たり次第に体当たりする。
あれはもともと力を主体とした戦闘に使う目的で生産された機械なのだろう。それが今やオーバーヒートまでしているだけあって、その体当たりはまさに岩をも砕きそうな勢いだった。
足下がぐらぐらと揺れて、ピエドラの立つ塔の最上段を支える石のアーチが、メキメキと軋み始めていた。
なかなかしぶとく炎の中を生き残るこの魔女を、無理矢理下に落とす気だ。
炎にまかれるか、屋根ごと落とされるか、どちらかが見えてきていた。
最早魔術を使う余裕もないピエドラと違って、相手は魔力も腕力も総力を結集してこちらの命を狙っている。
……やはりこの城に一人で来たのは無謀だった。
今までの人生、どんなときでもそうだったが、希望は消えるものだ。
気付けば、いよいよ杖との心中を覚悟したピエドラのもとに、今まで小男の邪魔をしてくれていた聖典の番人の老人が上がってきていた。
「ありがとう。色々世話になったけど、ここが詰みみたいだわ……」
『そうじゃな。普通に考えたら詰みじゃ。……しかしこんなときこそやってみる価値のあることも存在するのではないか、ピエドラ』
「何? どうせ最後だから何でも聞くわよ」
最早焦りもなくした魔女は、青白い存在と吹き上がる炎を視界のすみに入れながらぶっきらぼうに返す。
そんな魔女に老人が放った言葉は、今この場でまったく予想だにしないものだった。
『少しだけ、昔のことを思い出してみるのはどうじゃ?』
その言葉に、魔女はふうっと力が抜けた息を吐く。
そんなこと言われずとも、今まさに端から端まで昔の記憶が甦っているところだ。
「……走馬灯なら間に合ってるわよ」
『そうじゃ。それじゃ』
魔術はあらゆる記憶と結び付いておるのじゃ、と老人は言う。
しかしその言葉の先は無残にも途切れた。
機械人形の体当たりが、とうとう柱を折ったのだ。
塔の最上層が、ピエドラを抱えたまま崩れていく。
最早瓦礫と化して落ちていく屋根に、小男が追撃の爆破の呪文を唱えた。
最上層の細い窓から宙へと投げ出されたピエドラは、爆発の直撃はまぬがれたが、爆風でもろに空中を吹き飛ばされた。
しばらく爆風にあおられ宙を横切り、その後はそのまま城郭を視界に、頭から地面へ落ちていく。
……終わりだ。
最後を予感した体から力が抜けていく。
そして思わず杖を手放しそうになる左手に、例の聖典の守り人の冷気が触れた。
固くつぶっていた目をうっすら開けば、そこには、ピエドラと同じく宙を逆さになりながら、しかし未だ静かに瞳に精気を宿す青白い姿の老人がいた。
『すべての鍵は自分自身の記憶の中にある。……自由に魔術を使えたときに還るのじゃ』
そんな必要もないのに、自分と一緒に地面へと落ちていく古の精霊の言葉を、ピエドラは風を切る耳で聞いていた。




