エピローグ 苦情はもう受け付けない(アルド視点)
エメルが動くたびに、エメラルド色の長い髪や、真珠のような光沢を帯びたドレスの裾が軽やかに揺れる。
動きとしては風でカーテンが揺れるのと大差がないはずなのに、勝手に目が追いかけてしまう。
アルドはソファに深く座り直し、指で圧をかけるように眉間を揉んだ。
来客がある時を除き、屋敷では眼鏡をかけなくなった。
エメルから着用を懇願される時もあるが、意図はよくわからない。
「今日のケーキはベーシックなクランツです」
エメルはにこにこしながらケーキを運んできた。出来栄えに自信がある時の顔だ。
ケーキをコーティングしているキャラメルナッツの甘く香ばしい匂いが食欲をそそる。
「そのドレスは、ヴェーバー夫人が持ってきたものか」
ケーキを切り分けているエメルに尋ねた。
「はい! 可愛いだけじゃなくて、サイズもぴったりで着心地も良いんですよ!」
「そうだな。よく似合っている」
アルドが褒めると、エメルは花が開いたかのように顔を綻ばせた。
アルドもつられて微笑む。
言葉一つでこんなにも喜んでくれるなら、あれこれ考えず率直に気持ちを出すのも悪くない。
服など気候に合っていて動きを阻害しなければなんでもいいと思っていた。
ドレスはヴェーバー夫人の店でオーダーした物で、あの事件が起こる前に、ミラが完成させていたらしい。
ミラは取り調べの後、侯爵領にある監獄に収監された。ヒューやウィルフレド侯爵の口添えがあり、数年の拘禁にとどまった。
ヒューは自ら騎士団を辞め、今は辺境伯の使用人を自称している。屋敷の雑務をこなしたり、ヴェーバー夫人の店の手伝いをしながらミラが出所するのを待っているそうだ。
ウィルフレド侯爵からの書簡によると、リーゼッテは婚約破棄の後、心身の不調を理由に地方領で療養することになったらしい。
どこまでが真実かはわからないが、これ以上深入りすることでもない。
書簡には続きがあり、ウィルフレド侯爵――兄が婚約から話を先に進めなかったのは、リーゼッテが本当はアルドのことを好きだったのではないかと思っていたからだそうだ。
人が良いというか、抜けているというか。そのくせ、ヒューに密命を下していたりと、つかみどころがない。
「食べないんですか、ケーキ」
ふと気が付くと、心配そうに眉をひそめたエメルが顔を覗き込んでいた。
眼鏡がないと、こういう時に困る。
薄いレンズが間に一枚あるだけで平静を保つことができる。
逆に言えば、そういった防護壁がなければ感情がすぐに剥き出しになってしまう。
アルドはエメルを引き寄せ、自分の足の間に座らせた。
覆いかぶさるように抱きしめ、エメルの肩に顎を乗せる。
「わっ、なんですか急に」
エメルは居心地が悪そうにもじもじとしている。
「補給だ」
アルドは深く息を吸った。
よくケーキを焼いたりしているからか、エメルから焼き菓子の香りがする。
「えぇ? ちゃんと毎日浸かってますよ」
先日、工房にある補給装置の簡易版が完成し、濡れることを考慮に入れて浴室に設置していた。
「ハンシンヨクみたいですね!」とエメルは喜んでいたが何を指しているのかはわからなかった。
転生の真偽は定かではないが、エメルはしばしば聞きなじみのない単語を口にする。
「違う。私の、だ」
アルドはわずかに腕に力を込めた。
ケーキも充分魅力的ではあったが、いま欲しいのはエメルの体温だった。
ヒューがうろついていると安心してこんなことはできない。
「人にはさんざん婚前の接触はよろしくないとか言って細かく婚約の取り決めしたくせに」
エメルは頬を大きく膨らませた。
偽装婚約は破棄し、今は正式に婚約をしている。
すぐに結婚でも良かったが、エメルがウェディングドレスをミラに作ってもらいたいと言ったため、しばらくは婚約者のままだ。
しかし領民からは、ほとんど結婚したものとして扱われている。
ヒューを始めとした複数の騎士団員にあの補給現場を見られたのが良くなかった。
「数か月ならともかく、年単位で我慢をするのは精神衛生上よろしくない」
「そんな澄ました顔して、意外とえっちだったんですね」
エメルはふん、と鼻を鳴らし、切り分けたケーキを頬張る。
「それは私のだろう」
アルドはエメルの手首をつかみ、ケーキの刺さったフォークを自分の口元に運んだ。
食感の良いキャラメルナッツと柔らかなスポンジ、濃厚なバタークリームが合わさり、心地良い甘さが脳にまで染みわたる。
「全部アルドのですよ」
しょうがないとでも言いたげにエメルはため息をつき、アルドの方に顔を向けた。その頬はうっすらと赤みを帯びていた
あの夜、耳元で、
『――私もアルドと同じ気持ちで、もっとあなたのことを知りたいし、触れたい』
と囁いた口で今日も文句を言う。
まったく、性質が悪い。
言葉と態度が一致しないのだから、本当に人の心は難しい。
「苦情はもう受け付けない」
アルドは意地悪く微笑み、ゆっくりと顔を寄せる。
エメルは笑いながら、クリームがついたアルドの口元に唇を寄せた。
〈終〉
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