第9話 夜だけ光る塔
魔獣の群れを撃退してから数日が過ぎた。
私は自室の机に向かい、羽ペンを走らせて日課の記録を帳面に書き込んでいた。
守備隊員の疲労度、ティナの連続行使時間、私自身の消費量。改善した日も、落ちた日も同じ欄へ記した。
「……けれど、一つだけ気になることがあるわね」
私は帳面の右端、環境データを記した列を見つめて小さく呟いた。
前世のボディビルにおいて、大会直前のピーキングでは気温や湿度が身体の水分量に多大な影響を与えた。同じように、この世界で魔法のフォームを維持するためには、大気中の『環境魔力濃度』を把握しておく必要がある。大気中の魔力が濃いほど、自分の魔力を外に押し出す際に強い抵抗(重さ)を感じるからだ。
私は毎日定時に《灯火》を指先に灯し、その時に感じる「重さ」を十段階で数値化して記録していた。
そのデータによれば、ローヴェル領の魔力濃度は、少しずつだが確実に上昇している。一年後の大魔潮に向けて魔力が濃くなっていくのは公式の予報通りだ。しかし、問題はそこではない。
日中はなだらかに上昇している数値が、なぜか『夜間』になると不自然な波を描くのだ。
急激に重くなったかと思えば、深夜のある時間を境にフッと軽くなる。まるで、何か巨大なものがゆっくりと呼吸をしているような、規則的で不気味な波形だった。
「これは、私の感覚のブレではないはず……」
私は帳面を閉じ、自室を出た。
向かったのは、領主の館の一室に設けられたフェリクス殿下の仮設研究室だ。
「殿下、今お時間よろしいでしょうか」
開け放たれた扉から声をかけると、大量の書類と奇妙な真鍮製の観測機材に埋もれていたフェリクス殿下が、顔を上げて柔らかく微笑んだ。
「リディア嬢。ええ、構いませんよ。どうしました? 今日の訓練メニューは全て終わっているはずですが」
「はい。訓練ではなく、環境魔力について少しお聞きしたいことがありまして」
私はずかずかと部屋に入り、彼の机の上に自分の帳面を開いて置いた。
「この列の数値を見てください。私が毎日同じ時間に《灯火》を使って測った、大気中の魔力圧の推移です。夜間におけるこの不自然な上昇と下降の波……殿下の機材でも、似たような観測結果が出ていませんか?」
殿下の指が、私の書いた夜間の数値で止まった。
彼は無言のままバッと立ち上がり、背後にある巨大な観測魔道具の水晶板から、一枚の記録用紙を引き抜いて私の帳面の隣に並べた。
「自分の感覚だけで、この波形を?」
「ええ。指先の抵抗感です」
フェリクス殿下は返事をせず、私の帳面と観測紙を二度重ねた。山と谷がぴたりと一致したところで、書きかけの別資料を脇へ退ける。
「今夜、この波が最大になる時刻を見たい。手伝ってもらえますか」
「ボディビルダー……いえ、限界管理をする者にとっては、環境データの把握は基本中の基本ですから」
私が少し胸を張って答えると、殿下はふっと嬉しそうに笑い、私を真っ直ぐに見つめた。
自分の帳面を端へ寄せようとすると、殿下がもう一度借りたいと言った。邪魔な紙ではない。そのことだけで、笑ってしまった。
「リディア嬢。この夜間の魔力圧の変動は、自然現象とは考えにくい。領内のどこかに、魔力に干渉している発生源があるはずです」
「発生源……。心当たりは?」
「波の強さからして、領都のすぐ近くです。今日の夜、波が最も高くなる時間帯に、高台から観測を行いたい。……私と、一緒に来てくれませんか?」
殿下の誘いに、私は迷うことなく頷いた。
その日の深夜。
私とフェリクス殿下は、護衛に見張り台の登り口を守ってもらい、二人で領都の外れの高台へ登った。
かつては魔獣の監視用に使われていたという古い見張り台の跡地だ。今は使われておらず、風に晒された石造りの土台だけが残っている。
「足元が暗い。気をつけて」
殿下が私の足元を照らすように、小さな光球を浮かべてくれた。
深夜に男性と二人きりで出歩くなど、王都の貴族社会では到底許されないことだろう。だが、不思議と緊張はなかった。彼の隣を歩いていると、男女というよりも「同じ目的に向かう相棒」として扱われている心地よさがあった。
高台の頂上に着くと、領地全体が夜の闇の中に沈んで見えた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
私は静かに目を閉じ、大気中の魔力に意識を澄ませた。
「……来ます。空気が、重くなる」
「ええ。観測器の数値も跳ね上がっています。波のピークだ。発生源は――」
殿下が片眼鏡の観測器を覗き込み、領地の北東の方角へ顔を向けた。
私も目を開け、彼と同じ方向を見つめた。
最初は、ただの深い闇だと思った。
だが、目が慣れるにつれて、遠くの森の奥にそびえ立つ「何か」が、ぼんやりと浮かび上がってきた。
「あれは……」
思わず息を呑む。
森の奥にあるのは、古代の遺跡か何かだと言われていた、朽ちた石の塔だった。領民の誰も近づかない、ただの古い見張り塔。
しかし今、その古塔の表面に刻まれた幾何学的な紋様が大気中の魔力と呼応するように、淡い青緑色の光を放っていたのだ。
光は一定ではない。まるで心臓の鼓動のように、強く光っては弱まるという明滅を繰り返している。
「あの塔が、夜の魔力変動の原因……?」
「間違いない。あの光の明滅のリズムが、環境魔力圧の波と完全に同期しています」
フェリクス殿下の声は、硬かった。
「……単なる魔獣除けの古い塔だという記録でしたが、違いますね。あれは、大気中の魔力そのものを吸い上げ、あるいは逃がしている。極めて高度な魔力制御施設だ」
観測器を下ろした彼は、私の帳面をもう一度開いた。
「それだけではありません、リディア嬢。この塔の存在と、ここ数日の魔力濃度の上昇ペースのデータを掛け合わせた結果……恐ろしい仮説が成り立ってしまいます」
「恐ろしい仮説?」
「ええ。大魔潮がやって来るのは公式予報の『一年後』だとされていますが、この上昇ペースは異常すぎる。……もし私の計算が正しければ」
夜風が強くなり、遠くで光る塔が不気味に瞬いた。
フェリクス殿下は、重い事実を告げるように、静かに言葉を紡いだ。




