第10話 一年もありません
「公式予報の一年後とは、合いません」
領都外れの高台で、フェリクス殿下は観測紙へ計算を書き連ねていた。
森の古塔が明滅するたび、大気の魔力圧は上がっては落ちる。公式予報は、あの塔が正常に圧を逃がす前提で組まれていたらしい。けれど現実の塔は、長い放置で息も絶え絶えだ。
「このままの上昇率なら、猶予は――」
地鳴りのような咆哮が、殿下の言葉を断ち切った。
森の暗がりで、幾十もの赤い目が一斉に開く。
「館へ戻ります。群れが領都へ向かっている!」
私たちは高台を駆け下りた。
北東の外壁では、すでにバルド隊長が防衛線を組んでいた。押し寄せる魔獣は五十頭近い。夜の濃い魔力に煽られ、先日の群れより明らかに速い。
第一線の後ろには負傷者を運ぶ担架、さらに後ろにはティナの救護所がある。私はバルド隊長と、撤退の合図を二度確認した。
「障壁を三枚割られたら第二線へ。私が残ると言っても、隊長判断で下げてください」
「領主代行命令でもですか」
「これは今、私が出した領主代行命令です」
彼は短く笑い、拳で胸を叩いた。
「承知しました。お嬢様も戦力の一人として扱います」
守られるだけでも、全部を背負うのでもない。その約束をして、私は列の後ろに立った。
「第一列、盾を斜めに! 止めようとしないで、流して!」
私は前列の背後から極薄障壁を差し込んだ。
張る。割れる。次へ移る。魔獣の爪を数寸ずらすたび、守備隊の槍が急所へ届く。
それでも数が多すぎた。端の攻撃を拾おうと身を捻ると、右手の経路に鋭い熱が走った。
左端で盾兵が足を滑らせた。助けるには広い障壁では遅い。私は盾の縁を抜けた爪へ薄い板を差し込んだ。数度のずれを、兵が盾を立て直して繋ぐ。
「左、二歩だけ後退! 空いた場所へ槍を三本!」
爪が盾を擦り、火花を散らす。兵は踏みとどまり、隣の槍が魔獣の喉を貫いた。
一人を守るたび、別の一人が危険になる。全部を見るのではなく、列が自力で戻れない瞬間だけに手を出す。それでも指先の熱は増し、息が浅くなった。
「第三班、いったん下がって! 第二線まで――」
ドォン、と腹の底を揺らす音が響いた。
森の古塔が青緑の光を放ち、重かった空気が一息に軽くなる。膨れ上がっていた魔獣の筋肉から力が抜け、突進の足並みが崩れた。
「今だ、押し返せ!」
バルド隊長の号令で、守備隊が反撃へ転じた。
夜明け前。最後の一頭が倒れた時、重傷者も死者もいなかった。けれど、誰も手放しでは喜べなかった。塔が偶然もう一度息をしてくれなければ、防衛線は破られていた。
フェリクス殿下は、戦いの間も回し続けていた観測器を地面へ置いた。
「再計算できました。公式予測では、今は残り約十か月です。ですが、この流速ならおよそ八か月後に来ます」
「八か月……」
残り三百日ほどで組んでいた予定を、二百四十日へ縮めなければならない。
消えた二か月を気合いで埋めれば、人も物資も壊れる。削る仕事、前倒しする仕事、他人へ渡す仕事を分けなければならない。
私は震えそうになる指を握り、まず負傷者の点呼を命じた。ティナから重傷者なしの報告を受けて、ようやく膝が小さく震えた。
「怖かったですか」
フェリクス殿下に問われ、私は格好をつけずに頷いた。
「ええ。塔が動かなければ、撤退命令が間に合わなかったかもしれません」
「なら、その偶然を次の計画には入れないようにしましょう」
奇跡がもう一度起きる前提を捨てる。その言葉で、頭の中に新しい予定表の骨組みができた。
朝、フェリクス殿下は観測波形と戦闘記録を添えた公式報告に署名した。指揮責任者の欄には、私の名がある。
「これで王都も、君の成果と予報のずれを無視できません」
「無視できなくなった人たちが、素直に動いてくれるとは限りませんけれどね」
私の不安を裏づけるように、数日もしないうちに本家とクロイツ侯爵家から報告書の閲覧請求が届くことになる。
けれど今は、八か月で生き残る人数を増やす方が先だった。




