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第8話 あなたが責任者です

「領の東側、外縁部の森から魔獣の群れが接近中! 数は二十以上! 足が速い、このままでは一時間以内に領都の外壁に到達します!」


 見張りの兵士がもたらした急報によって、中庭の訓練場は一瞬にして張り詰めた空気に包まれた。


 つい先ほどまで、ティナの魔法が安定したことに歓声を上げていた隊員たちの顔が、一斉に戦士のそれに引き締まる。


「東側の森からだと? くそっ、大魔潮の前触れか、活動範囲が広がってきているな」


 バルド隊長が舌打ちをし、即座に振り返って声を張り上げた。


「第一班は武器を取れ! 外壁の手前、第三防衛ラインで迎え撃つ! ティナ、お前は後方の救護テントへ下がれ。絶対に前には出るなよ!」


「は、はいっ!」


 ティナが慌てて救護用の鞄を抱え、後方へと走り出すのを見届けた後、私はドレスの裾を軽く持ち上げ、バルド隊長の横に並び立った。


「バルド隊長。私も前線に出ます。領主代行として、迎撃作戦に加わらせてちょうだい」


「お嬢様!? 馬鹿なことを仰らないでください。二十頭以上の群れですよ! いくらお嬢様の障壁が優れているとはいえ、道中の数頭とは規模が――」


「だからこそ、訓練してきた防衛手順を使います。私が支援に入り、危険だと判断した時点で全員を第二線へ下げます」


 人命を実験材料にする気はない。だが、二十頭以上を正面から受ければ、魔力に乏しく剣術頼りの守備隊には死傷者が出る。私の極薄障壁で致命打だけを逸らし、バルド隊長の指揮で倒す。それが今ある戦力で最も生存率の高い手順だった。


「私が拾えるのは、見えている爪だけです。盾列は崩さず、間に合わない時は私ごと下げてください」


「支援が切れたら、すぐ合図を。俺たちだけでも守れる陣形で行きます」


 バルド隊長と退路を確かめ、私は隊列に加わった。


 東側の外縁部、第三防衛ライン。


 切り開かれた平原の向こうから、土煙を上げて赤黒い獣の群れが殺到してくるのが見えた。


 道中で遭遇した狼型の魔獣に似ているが、さらに筋骨が隆起し、凶暴さを増している。大気中の濃い魔力にあてられ、興奮状態にあるのだろう。


「構えろッ! 隊列を崩すな!」


 十数名が大盾と槍を構えた。私は列の背後で呼吸を整え、視界の中だけを守る。土煙に隠れた攻撃も、三枚を越す同時攻撃も拾えない。隊列を狭く保つことが、私の障壁を戦術に変える条件だった。


「来るぞ!」


 先頭の一頭が、凄まじい跳躍力で前衛の兵士に襲いかかった。


 兵士が大盾を斜めに構えて受け流そうとするが、魔獣の重い鉤爪が盾の縁を削り、兵士の肩口へと迫る。


(そこっ!)


 私は息を細く吐き出しながら、指先で空間を弾くように魔力を放った。


 パリンッ!


 兵士の肩口と魔獣の爪の間に、ラップフィルムのように薄い魔力障壁が一瞬だけ展開され、ガラスの割れるような音と共に砕け散った。


 爪は数度だけ逸れ、肩当てをかすめて空を切った。兵士が盾を押し返していなければ、間に合わなかった。


「今だ、突けぇっ!」


「おおおおっ!」


 姿勢が崩れた魔獣の腹に、隣の兵士の槍が深々と突き刺さる。


 だが、安堵している暇はない。右翼でも、左翼でも、魔獣の散発的な攻撃が隊員たちに牙を剥いている。


 張る。割れる。手を下ろす。


 一度に働くのは十秒か、長くても二十秒。盾列が押し返している間は魔力を切り、次に割り込む場所を探した。


 十分ほど経つと、指先に痺れが出た。まだ見える、という言い訳を飲み込んで手を上げる。


「支援を止めます!」


「一段下がれ! 盾は隣と離すな!」


 隊長の声で列が下がり、追ってきた一頭を三本の槍が止めた。私の出番がなくても、盾と槍は働いている。


 痺れが引いたことを確かめてから、私は支援へ戻った。誰も盾を捨てない。私が作った隙にだけ槍を出し、また閉じる。その繰り返しで、群れを少しずつ削っていった。


 後方の安全な位置では、フェリクス殿下が片眼鏡の観測器を目に当て、静かに私の魔力波形と戦場の推移を記録し続けていた。


 戦闘が始まっておよそ三十分。バルド隊長の剣が、最後の一頭を倒した。


 私が障壁を使った時間は、合計しても三分に届かない。残りの時間を繋いだのは、守備隊の盾と槍だった。


「……終わった、か」


 隊員の誰かが、信じられないというように呟いた。


 二十頭以上の凶悪な群れとの激突。


 しかし、周囲を見渡せば、軽傷を負って座り込んでいる者は数名いたが、命に関わる重傷を負った者は一人もいなかった。


 死者ゼロ。


 私は張り詰めていた魔力経路をゆっくりと閉じ、その場に膝をつきそうになるのを、大腿四頭筋にグッと力を込めて堪えた。


「お嬢様!」


 バルド隊長が血に濡れた剣を収め、息を切らしながら私の元へ駆け寄ってきた。


「見事です。お嬢様の障壁支援がなければ、重傷者が何人出たか分かりません。ですが、最後まで立っていられたのは皆が指示を守ったからです」


「……いいえ、皆さんの連携の成果よ。私は、ほんの少し軌道を逸らしただけ……」


 息を整えながら答える私に、隊員たちが次々と深い感謝の眼差しを向けてくる。


 その時だった。


「おお、これは素晴らしい! 見事な戦果でございますな!」


 少し離れた後方から、やたらと甲高い声が響いてきた。


 護衛の兵士に囲まれ、土汚れ一つない豪奢な服を着た恰幅の良い男が、小走りでこちらへ向かってくる。


 彼は、フェリクス殿下の魔脈調査に王都から同行してきている王冠魔導局の文官――つまり、視察員だった。魔獣の脅威が去ったのを確認し、のこのこと安全圏から出てきたらしい。


 視察員は、私たちの前を素通りすると、静かに観測器を片付けていたフェリクス殿下の前で恭しく頭を下げた。


「さすがは第二王子殿下! 辺境の貧弱な守備隊を率いて、死者ゼロでこれだけの魔獣を退けるとは。現場に殿下が居合わせてくださらなければ、この土地はどうなっていたことか」


 その言葉に、私はピクリと眉を動かした。バルド隊長も不快そうに顔をしかめる。


 視察員は、自分の手柄を見つけたようにまくし立てた。


「この見事な防衛の功績、直ちに王都へ提出する公文書に記載いたします。殿下の卓越した魔法支援とご指揮の賜物であると! さぞかし陛下もお喜びになるでしょう」


「…………」


 王族の功績にすれば、公文書は綺麗に収まる。反論する前に、諦めが喉を塞いだ。


 だが。


「……訂正しなさい」


 殿下は視察員の筆先を見ていた。声を荒らげないことが、かえって私まで緊張させた。


「で、殿下……?」


「私はただ、現場の端で観測を行っていたに過ぎない。魔獣に対して魔法一つ行使しておらず、指示も出していない。事実と異なる公文書を作成するつもりか?」


 視察員は冷や汗を流し、慌てて弁明しようとした。


「し、しかし! では誰がこの成果を……! まさか、そこのエルフェルトの令嬢がやったとでも? 彼女は魔力二十七の無能だと、王都でも専らの噂で……」


「無能なのは、数字の奥にある本質を見抜けない貴方の目だ」


 殿下の厳しい声に、視察員がビクッと肩を震わせた。


「作戦責任者は、ローヴェル領主代行リディア・エルフェルトです。観測記録を添付し、責任者欄へその名を書きなさい」


「は、はいっ! 直ちにそのように……!」


 王族の明確な命令に逆らえるはずもなく、視察員は顔を真っ青にして逃げるように後方へと戻っていった。


 私は、呆然とその背中を見送り、やがてゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるフェリクス殿下を見つめた。


「……殿下。庇っていただいて、ありがとうございます」


 私が小さく頭を下げると、殿下は静かに首を横に振った。


「私は君を庇ったのではありません。当然の、公正な評価をしたまでです」


 そう言って、殿下は自分のポケットから真っ白で清潔なハンカチを取り出した。


 そして、私の顔にスッと手を伸ばし、魔獣の血や土煙で少し汚れていた頬の泥を、優しく、本当に愛おしいものに触れるようにそっと拭った。


「っ……」


 至近距離で触れられ、私は反射的に息を呑んだ。


 彼の視線が、私を真っ直ぐに射抜いている。


「観測者の名で、実行者の成果を奪うわけにはいきません」


 殿下はそれだけ言い、泥の付いたハンカチを畳んだ。私が欲しかったのは庇護ではなく、あの責任者欄だった。


 泥は取れたはずなのに、頬だけがいつまでも熱かった。

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