第4話 一年後に滅ぶ土地
王都を出発して数週間。
道中の魔獣襲撃を乗り越え、私たちはついに辺境ローヴェル男爵領の領都へと到着した。
馬車の窓から見える街並みは、私の予想以上に活気がなかった。
石造りの家屋はあちこちの壁がひび割れ、屋根の修繕も滞っている。行き交う人々の顔には疲労と諦めが色濃く張り付いており、領主代行である私の馬車が通っても、期待の眼差しを向ける者はほとんどいなかった。
街の中央に位置する領主の館も例外ではない。庭の植え込みは伸び放題で、石畳の隙間からは雑草が顔を出している。
「……ひどい有様ですね。お母様が生きていらした頃は、もっと温かくて綺麗な場所だったと聞いていますが」
馬車から降りた私に付き従いながら、ミラが眉をひそめて呟いた。
無理もない。亡き母エレナの実家であるこの領地は、私が未成年である間、父アルノルトが後見人として管理していた。しかし、実態は「管理」などではなく「放置」だったのだ。父にとってローヴェルは、利益を生まない不採算の重荷でしかなかったのだろう。
館の玄関には、数名の使用人と共に、神経質そうな初老の男性が待っていた。
ローヴェルの政務を取り仕切る執務長、ハンスだ。
「リディアお嬢様。ローヴェルへようこそおいでくださいました。……本来ならば盛大に歓迎の宴を開くべきところですが、生憎と当領にはそのような予算も余裕も残されておりません」
「構わないわ、ハンス。私も社交の真似事をするためにここへ来たわけではないから」
私は彼らの冷え切った態度を咎めることなく、真っ直ぐに執務室へと案内させた。
重厚なマホガニーの執務机の上には、埃を被った書類の山が積まれていた。私はその机の前に立ち、ハンスと、着任の挨拶に来た守備隊長バルドに向き直った。
ハンスは、父の封蝋が押された管理権移管状と、母方の継承台帳を机に並べた。
「成人の日に管理権が移っていますので、リディア様が第一継承者兼領主代行です。王家の正式叙任までは暫定ですが、領法により、守備隊の動員、領費、避難、雇用と物資契約を決裁できます」
「本家の許可を取り直す必要は?」
「ありません。エルフェルト伯爵閣下ご自身の署名で、管理権は移されています。ただし……」
ハンスは苦々しい顔で帳簿を開いた。
「権限はあっても、執行する予算がありません。地下書庫も未整理のままです。先代――エレナ様の箱さえ、手を付けられておりません」
母の名に胸が痛んだが、まずは生きている人の帳簿からだ。責任ごと押しつける書状が、皮肉にも私の手を自由にしていた。
ハンスが重い溜息を吐き出し、机上の書類の束を指差した。
「リディア様もご存知の通り、公式の観測予報によれば、三十六年周期の『大魔潮』が到来まで残り約十一か月と予測されております。魔力が異常に濃くなり、大量の魔獣が活性化する大災害です」
「ええ。公式には、発生の三ヶ月前から住民の退避を開始する予定になっているわね」
「それはあくまで机上の空論です!」
ハンスが声を荒らげた。
「退避と言っても、どこへ逃げるのですか? 王都や他領への移住先確保も、避難先での仕事の斡旋も、中央からは『各領で手配せよ』と丸投げされています。ですが、今のローヴェルには避難民の移動を護衛するだけの兵力も、馬車を雇う資金もありません。住民たちは皆、自分たちは土地と一緒に見捨てられたのだと諦めきっております」
重い沈黙が執務室に落ちた。
隣に立つミラが不安げに私を見つめ、バルド隊長も悔しげに俯いている。
十一か月後に、あの群れが来る土地。今の馬車と兵力では、逃げるにも守るにも足りない。
道中で魔獣の恐ろしさを身を以て知った私の心にも、冷たい恐怖がよぎった。あの狼型の魔獣が何百、何千と群れを成して襲いかかってくる大魔潮。魔力27の私など、文字通り一瞬で蹂躙されてしまうだろう。怖い。どうしようもなく怖い。
だが、恐怖に呑まれそうになった私の脳内で、プロボディビルダー黒瀬玲奈の記憶がカチリと音を立てて思考を切り替えた。
(王都で聞いた一年から、旅の間にも日は減っていた。残りは約三百三十日)
三百三十日。前世なら、本番から逆算して身体を仕上げる時間だった。絶望するには長く、浪費するには短い。
私は大きく息を吸い込み、姿勢を正した。背筋を伸ばし、肩甲骨を寄せて胸を張る。肩の力を抜く。恐怖は残ったが、まず何を聞くべきかは考えられた。
「ハンス。バルド隊長。確かに状況は最悪ね」
私が静かな声で口を開くと、二人が顔を上げた。
「私は大魔潮を前にして、領民に『土地のために死んで戦え』と根性論を強いるつもりはありません。逃げたい者は安全に逃げられるべきです」
「では、避難を……? ですが、先ほども申し上げた通り、護衛も物資も――」
「ええ。だからこそ、私の権限を使うのです」
ハンスの前へ予定表を開いた。
「十一か月。その間に、逃げる準備と残るための準備を、並行して進めます」
「……準備、ですか」
「そうです。予算の使い道を根底から見直します。不要な装飾や儀礼の予算を全て削り、避難用の馬車の確保と保存食の買い付けに回します。同時に、道中の安全を確保するため、あるいはこの土地に残ることを選ぶ者のために、守備隊の戦闘力を徹底的に底上げします」
私の言葉に、ハンスが目を丸くし、バルド隊長が信じられないものを見るように私を見つめた。
逃げるか、残るか。中央や父が押し付けてきた二者択一の絶望ではなく、私は彼らに「選ぶための選択肢」を作りたい。
「まずは現状の正確な計測が必要です。ハンス、領内の全ての帳簿、過去の大魔潮の魔力観測データ、そして現在の食糧備蓄のリストを提出しなさい。バルド隊長は、守備隊員全員の年齢、魔力容量、持病、負傷歴をリスト化して」
「しょ、守備隊員の持病や負傷歴、ですか?」
「ええ。一人一人に合った最適な『メニュー』を組むために必要な情報です。ただ闇雲に剣を振らせても、壊れるだけですからね」
私は執務机を軽く叩き、彼らに向かって力強く微笑んでみせた。
「まず、見張りの交代と食事を確かめましょう。予定表を作るのは、その後です」




