第3話 魔力27でも、三分は守れます
王都を出発して数日が過ぎた。
辺境ローヴェル男爵領へと向かう馬車の中で、私は自分の右手首をじっと見つめていた。手首を僅かに内側に捻り、そこから指先へと魔力が流れる感覚を確かめる。
うん、この角度なら大胸筋から肩、腕への連動がスムーズにいき、魔力のロスが最小限に抑えられる。
「お嬢様。その『フォーム』とやらの確認は、馬車が揺れるたびにやらなければならないことなのですか?」
向かいの席に座る侍女のミラが、呆れたような声を出した。彼女は私が伯爵家で冷遇されていた頃から付き従ってくれている、ローヴェル出身の頼れる侍女だ。
「ええ、ミラ。反復練習は裏切らないわ。無意識下でも正しい姿勢が取れるようになるまで、徹底的に身体へ覚え込ませる必要があるの」
「魔力二十七という宣告を受けてから、お嬢様は少し……逞しくなられたような気がします」
「そう? 最高の褒め言葉ね」
私は小さく笑って、手首の角度を戻した。
出発前、フェリクス殿下には呼吸と排出経路の絞り方を見せた。公式記録に残った『要再評価』を、今度は実戦で確かめる。
(でも、机上の理論だけでは足りないわ)
私は馬車の窓から、次第に荒涼としていく景色を見つめた。
ローヴェル男爵領。亡き母の実家であり、私が第一継承者として領主代行を務める地。同時に、父が私を厄介払いするために押し付けた「一年後に大魔潮が来る土地」だ。
王都から離れるにつれて、大気中の魔力濃度がじっとりと濃くなっていくのを感じる。肌に張り付くような嫌な空気だ。
その時だった。
ヒヒィン! という馬のいななきと共に、馬車が急ブレーキをかけたように大きく揺れた。
「きゃっ!」
ミラが悲鳴を上げて座席から転げ落ちそうになるのを、私は咄嗟に腕を伸ばして支えた。
外から、怒号と金属がぶつかり合う鈍い音が響いてくる。
「何事ですか!」
私が窓から顔を出すと、馬車を護衛していた五人の騎士たちが、森の中から飛び出してきた獣の群れに取り囲まれていた。
赤黒い体毛に、異常に発達した牙と爪を持つ狼型の魔獣。それが十頭近くいる。
エルフェルト家から付けられた護衛騎士たちは、決して練度が低いわけではない。しかし、不意打ちと数の多さに完全に初動を潰され、陣形がバラバラに分断されていた。
「くそっ、囲まれるな! 馬車を守れ!」
隊長らしき初老の騎士が声を張り上げるが、二頭の魔獣が彼に同時攻撃を仕掛け、彼の手から剣が弾き飛ばされるのが見えた。他の騎士たちも防戦一方に回らざるを得ず、このままでは数分と経たずに防御網が突破され、死傷者が出る。
「お嬢様、危険です! 中へ!」
「ミラ、馬車の床に伏せていなさい。絶対に顔を上げないで」
私はミラを馬車の中に押し込むと、躊躇うことなく馬車の扉を蹴り開けた。
外の空気は血と獣の臭いで満ちている。
状況は極めて悪い。魔力容量27の私では、護衛騎士たちと馬車をすっぽり覆い隠すような『分厚い大障壁』を展開することは不可能だ。無理にやれば、一瞬で魔力が枯渇し、意識を失って魔獣の餌食になる。
(タンクの総量が足りないなら、どうする?)
前世の記憶が、私に問いかける。
一〇〇キロのバーベルを一度も上げられないなら?
十キロのバーベルを、無駄のない型で百回上げればいい。
「――っ、呼吸を整えて」
私は深く息を吸い込み、肋骨を広げ、腹圧を高めた。
足の裏で馬車のステップをしっかりと捉え、骨盤を安定させる。
狙うのは、剣を弾かれ、今まさに魔獣の凶爪に引き裂かれようとしている隊長の目の前。
魔力を薄い板へ変え、隊長と魔獣の間へ斜めに置く。
視界の中にしか作れず、同時に保てるのは三枚まで。大質量や範囲攻撃は止められない。一撃を数度逸らすだけの、壊れることが前提の障壁だ。
パリンッ!
ガラスが割れるような甲高い音を立てて、私の張った障壁は魔獣の爪の一撃であっけなく砕け散った。
だが、魔獣の爪の軌道は確かに逸れ、隊長の首筋を掠めるに留まった。
「な、何だ……?」
呆然とする隊長。だが、私は休まない。
割れたら次を張る。視界に入った爪だけを、接触の直前に逸らす。
ガキンッ! パリンッ!
土煙で一瞬でも見失えば間に合わない。私は騎士たちへ馬車の周囲から離れないよう叫んだ。
「はぁっ、ふぅっ……」
息を吐きながら出力し、吸いながら魔力を丹田に集める。
指先が焼け付くように熱い。脳の奥がズキズキと痛み始める。
「隊長! 剣を! 私が防いでいる間に、陣形を立て直して!」
私の叫び声に、ハッとしたように隊長が弾かれた剣を拾い上げた。
「お、お嬢様!? 馬鹿な、魔力二十七の令嬢が、なぜこれほどの連続行使を……! お前たち、令嬢を死なせるな! 反撃しろ!」
隊長の号令で騎士たちが陣形を戻した。私が一瞬だけ爪を逸らし、その隙へ剣が入る。
一分。二分。障壁を張るたび指先の痛みと視野の狭まりが増す。三枚を越えそうになれば一枚を捨て、呼吸を戻した。
そして、三分。
「これで最後だぁぁっ!」
隊長の剣が、最後の一頭となった魔獣の急所を貫いた。
ドサリと重い音を立てて魔獣が倒れ伏し、周囲に静寂が戻る。
「……ふうっ」
私は展開していた魔力の経路をゆっくりと閉じ、深く息を吐き出してフォームを解いた。
全身が汗ばみ、膝が僅かに震えている。魔力残量は残り一割を切っている感覚だが、枯渇して倒れることはなかった。
三分。次の一枚を張る余力は、もうなかった。
「お、お嬢様……」
血と泥に塗れた隊長が、ふらつく足取りで私の前に歩み寄り、そのまま深々と片膝を突いた。他の騎士たちも、怪我の手当てを後回しにして一斉に平伏する。
「まさか、このような……。我々は、お嬢様をお守りするどころか、逆にお救いいただいてしまいました」
隊長の声は震えていた。
出発前、彼らの目には「魔力27の無能な令嬢を辺境まで送り届ける、左遷まがいの任務」に対する不満が僅かに見え隠れしていた。それを責めるつもりはない。数字が全ての世界なのだから。
「気にしないでください。私は、皆さんが陣形を立て直すための時間を三分稼いだだけです。魔獣を倒したのは、皆さんの剣の腕ですから」
私がそう言うと、隊長は顔を上げ、真剣な眼差しで首を横に振った。
「いいえ。あの絶望的な状況で、お嬢様のあの障壁がなければ、我々は確実に死んでいました。エルフェルト家に戻った後、この事実は必ず公式の報告書に記載させていただきます。リディアお嬢様の魔法が、我々の命を救ったと」
公式の証言。
それは、父がいくら「誤差だ」と否定しようとしても、実戦で命を守ったという揺るぎない結果だった。
私は小さく頷き、乱れたドレスの裾を払って背筋を伸ばした。
「ありがとう、隊長。でも、まずは皆さんの休養が先よ。傷の手当てをして、少し休憩にしましょう。疲労を抜かないと、次のセット……いえ、次の襲撃に対応できないわ」
「は、はいっ!」
私が競技者の用語をうっかり口走ってしまったことに気づいたのは、馬車に戻ってミラから「お嬢様、セットとは何ですか?」と真顔で突っ込まれた時のことだった。




