第39話 恋人だから、下がってください
大魔潮の第一波とぶつかって三時間。
息継ぎ塔と訓練班の交代運用で北門は持ちこたえていたが、途切れない物量は少しずつ人の判断を削っていた。
その時、北側の観測柱が火花を散らして沈黙した。
「塔からの圧力データが来ません!」
柱が止まれば、四基の交代周期を実際の波に合わせられない。固定周期のまま十五分は動かせるが、その先は塔を傷める危険があった。
通信器からフェリクス様の声が飛ぶ。
『中央の観測は主任研究員へ引き継ぎました。交換部品を持って、そちらへ向かいます。北柱の同期印は私の担当です。交代技師は西の観測所にいるので、今は私の方が早い』
王族だから前へ出るのではない。今ここへ間に合う技師として、来てもらう必要があった。
数分後、護衛二人と走ってきたフェリクス様は、土に膝をついて観測柱を開いた。私は見える側からの爪だけを障壁で逸らし、バルド隊長は修理区画の前に盾列を置く。
「同期まで二分。リディア、右の回路を押さえてください」
「了解です。出力はこれで?」
「少し強い。二割落として十分です」
彼の観測と私の制御が噛み合い、死んでいた柱に青い線が戻っていく。
「北西の圧、上昇しています。第一塔をあと十五秒で閉じる」
「こちらでも見えました。復旧した線を使って、第三塔へ切り替えます」
言葉を最後まで交わさなくても、同じ数値を見て同じ判断へ届く。王都の測定室で初めて記録を信じてもらった時から積み上げた、私たちの呼吸だった。
だが、魔獣の群れを割って、通常の二倍はある変異種が突進してきた。盾列が一撃で崩れ、修理中のフェリクス様へ黒い爪が迫る。
彼は作業の手を止めず、片手だけで白い光を放った。光は変異種の片目を焼くのではなく、瞼の直前で弾け、視界を奪う。わずかに逸れた爪へ、私が斜めの障壁を差し込んだ。
ガギィン、と障壁が砕ける。
爪は観測柱の横を抉り、フェリクス様には届かなかった。
「修理を続けてください!」
「ですが、君の経路温度が上がっている」
「ここは私の持ち場です。恋人だからこそ、役割を捨てて前へ出ないでください」
彼は一瞬だけ私を見て、すぐ工具へ視線を戻した。
「……了解。あと四十秒、背中を預けます」
変異種が口を開き、炎を練り始めた。
防衛線の若い兵が一人、倒れた盾の下で足を挟まれている。バルド隊長が救出へ走るが、炎の方が早い。
私は反射的に広範囲障壁を作りかけた。全部を受け止めようとした瞬間、修理を終えた観測柱が明滅し、フェリクス様の鋭い声が重なる。
「リディア、出力を切って! 広げれば経路が焼けます。恋人だから言います。下がってください!」
私は出力を切り、盾列の後ろへ下がった。
同時に、側面へ回った訓練班の水弾が変異種の口へ集中する。炎は消えなかったが、噴き出す勢いが鈍った。バルド隊長と二人の兵が大盾を重ね、熱を受けながら若い兵を引きずり出す。
私の位置から見えたのは、盾の端から飛んだ石片だった。それだけを一枚で逸らす。炎は私の障壁では防げない。
救出した兵ごと盾列が退く。空いた射線へセシリアが細い炎を通し、変異種の急所を貫いた。
同時に、観測柱が澄んだ音を立てた。
「同期復旧。四基とも正常です」
フェリクス様が立ち上がり、私の手首へ観測器を当てる。
「危険域の手前です。三十分、交代してください」
「殿下も。修理中に魔力を使いましたね」
「では一緒に下がりましょう」
次の班へ持ち場を渡し、後方の給水所へ下がった。三十分後の交代札を受け取り、最初の三分で水を飲む。互いの水筒を取り違えて、一口飲んでから気づいた。
「今のは、恋人らしい出来事でしょうか」
「衛生上は推奨できません」
「そういうところですよ、リディア」
水を飲み終えても、前線には戻らなかった。遮断布の下で残り二十七分を休み、観測器で経路温度の低下を確かめる。
途中、遠くで衝撃音がした。腰を浮かせかけた私の袖を、隣の彼が引く。私も、その白衣をつかんだまま座り直した。
「フェリクス様。交代札、まだですよ」
「分かっています。君も離さないで」
三十分を終え、救護係の確認を受けてから、私たちは別々の持ち場へ戻った。
引き止めた袖の皺を、私はしばらく覚えていた。




