第38話 大魔潮、十二時間前倒し
【大魔潮予測時刻まで、あと半日。】
夜が明けても、東の空は赤紫のままだった。
窓を開けると、重い空気が喉にまとわりつく。私は身支度の途中で、壁の呼び鈴へ手を伸ばした。
その前に扉が開いた。
「リディア嬢。第一波が来ます」
夜番の研究員に呼び起こされたフェリクス殿下は、上着の襟を片方折り込んだままだった。手には、表面にひびの入った魔力圧測定器を持っている。
「別の計器でも確認しました。流速が急に上がっています。予測より十二時間早い」
残っていたのは予備点検と細かな手直しだけだ。重要な補強は昨夜終えた。それでも、使えるはずの半日が消えた。
手帳を開こうとして、表紙を取り落とした。
心臓が嫌な速さで跳ねている。三呼吸だけ待ち、吐く息を細くした。怖さは消えない。次に読む行へ目を合わせられるところまで、息を整えただけだ。
「予備点検は中止。各班を配置へ。まだ終わっていない作業はありますか」
「南の通路の手すりです。そこは封鎖して、隣の石段を使わせます」
「お願いします。ハンス、第一鐘を」
警鐘が鳴った。
窓の下で荷車が止まり、広場にいた人々が一斉に顔を上げる。子供の泣き声がして、誰かが走りかけた。
「領都の人は地下避難所へ! 荷物は置いていい、入口で世帯名を言ってくれ!」
「外縁村は収容済みです。第二経路の確認も取れました!」
一つの入口へ人が寄りすぎると、誘導係が縄を張り直した。いつも通りにはいかない。それでも、向かう場所を尋ねる声には返事があった。
領外へ出る人の先行便は出発済みだ。領内に残る人も一度に領都へ集めず、外縁村の強化避難所と、そこから中央へ移る第二経路を用意している。保存食はすでに各拠点へ分けてあった。
「お嬢様、コートを」
ミラの手が、留め金を一度すべった。私も押さえ、二人で掛け直す。
「救護班は?」
「ティナが受け入れの確認をしています。私は地下へ」
「頼みます」
無事で、と言いかけてやめた。ミラが先に私の袖を握り、それから放した。
館を出たところで、フェリクス様と配置表を最後に突き合わせる。職員が行き交う中、私たちも別々の持ち場へ向かわなければならない。
「通常波に対する交互運用を始めました。二基で排気し、残る二基を冷やす。三十分を目安に交代しますが、温度が先に上がれば現場が短縮します」
「私は北門の支援へ。班の交代は各班長、全体の集計は後方指令所に任せています。セシリアも第三塔を訓練済みの制御班へ渡して、遊撃班に加わります」
「観測値は、そちらにも送ります」
彼が右の拳を差し出した。私も拳を合わせる。
危機を越えた後の約束は、まだ果たしてもらっていない。王都の仕事を終えて戻ってくる人を、ここで失いたくなかった。
「殿下も、交代の呼び出しには応じてくださいね」
「君もですよ」
それぞれの道へ分かれた。
***
北門の第一防衛線へ着くと、地平線が黒く動いていた。
魔獣の群れだ。どこまで続いているのか見えない。隣の兵士が槍を握り直し、柄に爪を立てている。
私は退路を振り返った。二段目の柵は開いている。救護への通路も空いている。
前を見た時、東の第一塔から排気が上がった。
『第四塔も開きました』
通信とともに、領都地下の排気坑から低い振動が伝わってくる。西の第二塔と南の第三塔は冷却待機だ。
喉に貼りついていた重さが少し薄れる。先頭の魔獣が足をもつれさせ、後ろの一頭とぶつかった。
「盾を構えろ! 射線を空けて、目と足を狙え!」
バルド隊長の合図で《灯火》と水弾が飛んだ。
私たちが鍛えてきたローヴェル魔力訓練班。第一列が撃ち終える前に、第二列が半歩ずれて次の射線を取る。止まった魔獣を槍兵が突き、抜けてきた一頭には大盾を重ねる。
「右翼、二歩下がる!」
盾が押され、靴底が土を掘った。私は見えている爪へ一枚、斜めに障壁を差し込む。
砕ける音。爪が盾の端を滑り、隣の槍が脇腹へ届いた。
土煙で見えなくなった先には張らない。右翼の班長が、自分の判断で列を閉じた。
最初の交代で、一人が合図を聞き逃した。後列の兵士が肩を叩くと、彼は慌てて下がってくる。震える手へ水筒が渡された。
私も障壁を切り、次の班が位置につくのを待つ。
二歩退いた線は、それ以上崩れなかった。
魔獣はまだ来る。それでも、一度目の交代を終えた人たちが、次の順番を待っていた。




