第32話 一基目は、予定通り
【安全実証1日目/大魔潮まで57日。】
東の森にある、第一の息継ぎ塔。
私たちは今、国王陛下が再接続の条件とした『三十日間の安全実証』の初日を迎えていた。
母の帳簿と実測で四基すべての位置は特定できた。今日から一基ずつ投入して逆流の有無を記録し、最終日に四基連動へ進む。三十日で修復と試験を同時に終える、余裕のない工程だった。
「……出力安定。回路の過熱も規定値の範囲内です。第一塔の完全稼働、順調な滑り出しですね」
フェリクス殿下が観測器から目を離し、手元の記録帳に数値を書き込んだ。
私は塔の制御台から手を離し、ホッと息を吐いた。
人前で呼びかける時は、これまで通り殿下。二人きりなら、フェリクス様。
朝、そう決めただけで名前を呼ぶ前に一呼吸置くようになった。頭の中ではもう、何度も呼んでいるのに。
殿下が記録帳から顔を上げ、自然な動作でポケットから白いハンカチを取り出すと、私の額に浮いた汗をそっと拭ってくれたのだ。
「お疲れ様。かなり集中していましたね」
「あ……ありがとうございます。殿下こそ、昨日からずっと書類仕事と観測の連続で、目が充血していますよ。少し水分を摂ってください」
私が持っていた水筒を渡そうとすると、受け取る際に彼のごつごつとした指先が、私の指に触れた。
ただそれだけの接触で、胸の奥がキュッと甘く締め付けられる。
最適化のフローチャートを燃やした私は、もう変な理屈で逃げたりしない。顔が赤くなるのをごまかさず、彼に向かって小さく微笑んだ。殿下もまた、少し照れたように視線を逸らして水を飲んだ。
稼働テストはそのまま数時間が経過し、夜通しの観測が必要な時間帯へと差し掛かった。
森の中に張られた待機用のテントには、小さなランタンの明かりが灯っている。
「リディア嬢」
データとにらめっこしていた殿下が、顔を上げずに言った。
「第一塔の魔力圧は安定していますが、深夜帯の魔脈の変動は読めません。私はこのまま残ってデータを取るので、君はテントのベッドで少し仮眠をとってきなさい。疲労が溜まっているはずです」
その言葉に、私は思わず眉をひそめた。
確かに私は疲れているが、それは殿下も同じだ。いや、王都とのやり取りや複雑な計算を一手に引き受けている彼の方が、脳の疲労は遥かに激しいはずである。
これまで、結果を急ぐあまり限界まで自分を追い込もうとしていたのは、常に私の側だった。けれど今夜は、役割が逆転していた。
「……却下します」
私は歩み寄り、殿下の背後から、彼の手の中にあるペンと観測器をスッと取り上げた。
「なっ……リディア嬢?」
「フェリクス様。同じ行を二度書いていますよ。交代班が来たら、続きは私たちが見ます」
私は彼の手を引き、半ば強引に椅子から立たせた。
「交代です。観測班は三交代で組んであります。次の三時間は私と研究員二名が見張りますから、フェリクス様は眠ってください」
「ですが、君の負担が――」
「私が誰かにお世話されるばかりの、か弱い令嬢だとでも?」
私がわざとらしく腕の筋肉を強調するポーズをとると、殿下は目を丸くした後、肩を震わせて笑い出した。
「ふふっ……。いや、参りました。教官の命令とあっては、従うしかありませんね」
殿下は素直にテントの奥にある簡易ベッドへと向かい、軍用の固い毛布を被った。
そして、目を閉じる直前に、ランタンの明かりに照らされた私を見て、静かに言った。
「……分かりました。では、私の背中は君に預けますよ。リディア嬢」
それはかつて、第二塔の封印解除の際に、彼が私に言ってくれた言葉だった。
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頷いた。
「ええ。安心しておやすみなさい」
数分後。
テントの奥から、殿下の規則正しい寝息が聞こえてきた。よほど限界が近かったのだろう。
私は彼の寝顔を少しだけ愛おしく見つめた後、テントの入り口に座り、夜の森に建つ第一塔の明滅を監視し始めた。
入ってきた研究員たちと観測欄を分担し、眠る彼の毛布を直した。眼鏡を外した顔を見るのは、まだ少し照れる。
三時間後には、私が眠る番だ。交代欄へ自分の名前も書き入れ、ランタンを寝台から遠ざけた。
第一塔は夜明けまで止まらなかった。そのそばで、私たちは順番に眠った。




