第30話 残るのは、私の意思です
【大魔潮まで59日。】
王冠中枢塔の亀裂という致命的な事実が判明した日の夕刻。
領都の中央広場には、仕事を終えた住民と各村の代表が集まっていた。来られない世帯へは、同じ説明を書いた紙を届ける。
演壇に立つ私とフェリクス殿下は、彼らに対して何一つ隠すことなく、全ての真相を告げた。
「……現在、王都の地下にある王冠中枢塔の基部には、深刻な亀裂が入っています」
広場がどよめいた。
「もしこのまま大魔潮を迎えれば、王都は崩壊し、その反発でローヴェル領にも致命的な魔力の逆流が起こります。それを防ぐ唯一の方法は、残り約六十日の間に、領内に眠る四基の息継ぎ塔を完全に修復し、交互に稼働させる安全な運用法を確立することだけです」
私がそこまで言うと、殿下が静かに一歩前に出た。
「王家の避難便を、明日から増やします。新たな行き先は王都の魔脈から離れた受け入れ地で、安全確認と生活費の手配を済ませています。今ある情報で、出発するか残るかを選んでください。残った後でも避難の相談はできます」
殿下の言葉は重く、そして誠実だった。
私たちは「全員で残って戦おう」とは言わなかった。子供や病人、体力のない老人たちには、先行して退避することを強く推奨した。
命を守るための避難は、決して逃亡でも悪でもない。私が一番最初に、彼らに約束した通りだ。
結果として、全体の三割ほどが王家の用意した移住先へ先発する道を選んだ。残る世帯も、子供、病人、介助が必要な者は領外へ送るか、領都と各外縁村の強化避難所へ移す。誰をどの便に乗せるかは、各家庭の事情を聞いて決めた。
そしてバルド隊長、ティナ、職人を含む働ける者たちは、この土地に残ると声を上げた。避難を選んだ者を責めず、残った者にも玉砕を強いない。それが私たちの合意だった。
***
集会が終わり、すっかり夜が更けた頃。
私は一人、領都の近くにある修復済みの第一塔の屋上に登っていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
空を見上げると、魔力圧の上昇のせいか、星がいつもより大きく、不気味なほど鮮明に輝いていた。
残り五十九日。
手すりを握ると、広場で答えきれなかった質問が浮かんだ。今夜だけで皆の不安を消せるはずがない。明日の相談窓口には、私も座ろうと思った。
「……やはり、ここにいましたか」
背後から、静かな足音と共に声がした。
振り返ると、ランタンを提げたフェリクス殿下が、屋上の階段を上りきったところだった。
「殿下。……どうしてここに?」
「少し、頭を冷やしたくてね。君なら、静かな場所を知っているかと思いまして」
殿下は私の隣まで歩み寄り、ランタンを足元に置いた。
私たちはしばらく無言で、星空の下に広がるローヴェルの街並みを見下ろしていた。
「殿下」
私は、前を向いたまま口を開いた。
「王都へ、お戻りください」
「……」
「王家が旧運用の責任を認め、避難と支援の命令を出した以上、殿下がこの危険な最前線に残る義務はありません。それに、王冠中枢塔の亀裂の修復は、王都にいる魔導局の技術者たちを直接指揮しなければ間に合わないでしょう」
それは、私の領主代行としての、極めて合理的で正しい判断だった。
彼がここに残って命の危険を冒す理由はない。
しかし、殿下は私の言葉に、静かに首を横に振った。
「王冠中枢塔の修繕は、私が推薦した研究院の同僚に王命で任されています。こちらで観測を続け、王都との調整も果たします。ただ……それだけが、残りたい理由ではありません」
殿下が私のほうへ向き直った。
私もつられて彼を見上げる。
夜の暗闇の中にあっても、彼の深い青の瞳は、吸い込まれそうなほど真っ直ぐに私を捉えていた。
「今から言うことは、王子としての要請でも、研究の相談でもありません」
殿下は、ゆっくりと私に近づき、私の両肩にそっと手を置いた。
「王子だからでも、研究のためでもなく。……ただ、私が君の隣にいたいのです」
「っ……」
「君が泥だらけになって足掻く姿を、その不器用で美しい努力を、誰よりも一番近くで見届けていたい。……リディア嬢、私は君が好きだ」
――静かな塔の上に、彼から発せられた言葉だけが響いた。
そこには、成果も、理由も、将来の計画も一切なかった。ただ純粋で、混じり気のない好意の塊。
私は、息をするのを忘れていた。
これまで恋愛というバグを、必死に「課題」や「研究発表」に変換して逃げ続けてきた。でも、こんなにも直球で誠実な言葉をぶつけられてしまえば、どんな『最適対応フローチャート』も役に立たない。
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音だけがうるさく耳の奥で鳴り響く。
何も考えられない。言葉が出ない。
私はただ、彼の優しい瞳に見つめられたまま、完全にフリーズして夜風の中で立ち尽くすことしかできなかった。




