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第29話 この土地は、王都の逃がし口でした

【大魔潮まで59日。】


 訓練班が私なしで迎撃を終えた日から、数か月が過ぎた。


 第一塔の休止周期を調整し、第二塔は仮復旧、第三塔は応急処置を済ませた。どれも領内だけの試験で、王都から大きな圧を受ける準備はまだ整っていない。


 王家の先遣隊に続き、食糧や資材の荷馬車が定期的に通うようになった。避難便を増やし、班を組み替え、測り直す。その間も、王都側から届く波形の乱れだけは消えなかった。ディックも長い治療を経て仕事へ戻ったが、腕の痺れが残るため、前線から倉庫の記録係へ移っている。


「……最悪の事態です」


 領主の館にある仮設研究室で、フェリクス殿下は机の上に広げた大量の羊皮紙を前に、重い溜息をついた。


 私は彼が淹れてくれた紅茶を手に、書類を覗き込んだ。


「何が分かったのですか、殿下」


「昨日届いた王冠中枢塔の最新データを、こちらで実測できた三基と、エレナ様の帳簿から位置と流量を推定した第四塔の記録へ重ねました。……その結果、中枢塔の基部に、魔力圧の集中による深刻な亀裂が走っていると判明したのです」


 殿下が指し示した図面には、巨大な塔の根元に、血管のように広がる赤い線のデータが記されていた。


「亀裂……。それはつまり、どういうことですか?」


「三十六年前の旧緊急運用は、『王冠中枢塔に溜まった魔力圧を、ローヴェルの息継ぎ塔へ一時的に逃がす』というものでした。当時は王都側の塔が堅牢だったからこそ成立した力技です。ですが、長年の修繕放置により、現在の中枢塔はすでに限界を迎えている」


 殿下はペンを置き、険しい目で私を見た。


「もし今回の大魔潮で、再びローヴェルへ一極放出を行うような真似をすればどうなるか。……ローヴェルが吹き飛ぶだけでなく、その反発で逆流した魔力圧によって、亀裂の入った王冠中枢塔も崩壊します。つまり、王都もろとも共倒れになるということです」


 私は息を呑んだ。


 ヴァルター局長の退避案は、辺境へ圧を逃がして王都を残すためのものだった。だが、受け皿が壊れた時の逆流まで入れれば、その王都さえ守れない。


「再計算の結果、大魔潮の第一波がこのローヴェルに到達するまで、猶予は残りおよそ『六十日』しかありません」


 六十日。たったの、二ヶ月。


 私は無意識のうちに、自分の手帳のスケジュールを脳内で引き直していた。


 四基の息継ぎ塔の修復。訓練班の練度向上。避難計画の策定。


 工程を並べるだけで、余白がなくなった。どれを先に済ませ、何を諦めるかまで決めなければならない。


「殿下。六十日で、残る息継ぎ塔を全て修復し、稼働させなければならないのですね」


「ええ。ですが、ただ直すだけでは駄目です。王都への逆流を防ぐための『安全な運用方法』を確立しなければ、王冠中枢塔の亀裂は防げない」


 殿下は書類をまとめると、立ち上がって窓の外を見た。


「王宮の監査室には、避難判断に必要な数値の公表を認めてもらいました。今日の夕刻、再び住民集会を開いてください」


「……え?」


 私は驚いて彼を見返した。


 王冠中枢塔に致命的な亀裂が入っている。それは、王都の防衛システムが根底から崩壊しかけているという、国家機密クラスの重大な情報だ。


「殿下、本気ですか。そんな事実を公表すれば、王都からどんな非難を浴びるか分かりません。王家の権威も、殿下の立場も……」


「批判は受けるでしょう。だからといって、危険を隠したまま選んでもらうわけにはいきません」


 殿下は振り返り、私が隠しかけた公表用の紙を引き寄せた。


「王家の利益よりも、保身よりも。彼ら住民が『この土地から逃げるか、それとも残って戦うか』を判断するための、正しい材料を提供することが優先です。それが、彼らの命を預かる者の最低限の誠意だ」


 その横顔には、三十六年前の王家の罪を一人で背負い込もうとした時のような、痛々しい悲壮感はなかった。


 公表用の紙へ、殿下は自分の署名を入れた。


「……分かりました。すぐに手配します」


 私は小さく頷き、執務室を出ようとして、ふと足を止めた。


 彼がこれほどの覚悟を決めているのなら。私もまた、領主代行として、そして彼の相棒として、全てを懸けてこの六十日を戦い抜かなければならない。


 ハンスへ集会の手配を頼み、私は掲示用の図を作り直した。


 避難先がどこまで安全なのか。残るなら、何がまだ間に合っていないのか。


 読みにくい数字を一つずつ書き換える。今夜、私たちを信じてほしいと言う前に、見せなければならない紙だった。

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