第28話 私がいなくても勝てました
「……心拍数の、ログって」
休養日明けの朝。
私は自室のベッドの中で、枕に顔を押し付けて小さく身悶えしていた。
昨日の夕暮れ、市場の高台でフェリクス殿下が向けてくれた、あの甘く熱い言葉。それに耐えきれず、完全に恋愛のバグを起こしてしまった私のトンチンカンな返答。
思い出すだけで、全身の血液が沸騰しそうになる。
でも、いつまでもベッドの中で赤くなっているわけにはいかない。私はローヴェル領の領主代行であり、魔力訓練班の教官なのだ。公私の区別はきっちりとつけ、感情のブレはフォームの乱れに直結するという基本を思い出さなければ。
「……よし。今日の分は、今日の分だけ」
私は両頬を軽く叩いて気合を入れ、冷徹な教官のペルソナを被って中庭の訓練場へと向かった。
しかし、訓練場に到着した私の目に飛び込んできたのは、無人のグラウンドだった。
「……誰も、いない?」
いつもなら、バルド隊長の号令のもと、隊員たちがすでに準備運動を始めている時間だ。
不審に思っていると、館の奥から執務長のハンスが血相を変えて駆け出してきた。
「リディア様! いらっしゃいましたか!」
「ハンス、皆はどうしたの?」
「今朝早く、北の村の近くで小規模な魔獣の群れが発生しました! 規模が二十頭未満なら現場指揮官が即応する――お嬢様が定めた権限表に従い、バルド隊長たちは迎撃へ。こちらへの伝令も出ていますが、隊長より先に到着できませんでした」
「なっ……!」
私は息を呑んだ。
私が現場で、あの極薄の障壁支援をしていない状態での実戦。
確かに、日々の反復で彼らの燃費は劇的に向上している。だが、実戦の恐怖とプレッシャーの中では、簡単に動きが崩れてしまう。もし誰かが大怪我をしたら?
「馬を用意して、ハンス! すぐに現場へ向かいます!」
私はドレスの裾を掴み、厩舎へ向かって駆け出した。
北の村の近郊。
馬を飛ばして駆けつけた私が目にしたのは、すでに戦闘の喧騒が収まった後の静寂だった。
草原には、十数頭の魔獣の死骸が転がっている。
「……皆!」
私が馬から飛び降りると、死骸の片付けをしていたバルド隊長が振り返り、ハッと姿勢を正した。
彼の鎧には魔獣の返り血が浴びせられていたが、その動きに怪我を庇うような不自然さは全くない。
「お嬢様! 申し訳ありません、お休み中にお騒がせしてしまって」
「怪我人は!? 防衛線はどうなったの!」
「ご安心ください。かすり傷を負った者が数名出ましたが、重傷者はゼロです。防衛線も完全に維持しました」
バルド隊長は、誇らしげに胸を張った。
私は信じられない思いで、少し離れた後方の安全地帯――救護スペースへ目を向けた。
そこでは、ティナが数名の隊員を相手に手当てを行っていた。
「痛いですか? でも、息を止めないでくださいね。筋肉が強張ると、治癒の魔力がうまく浸透しませんから」
ティナは、かつて私が彼女に教えたのと同じように、優しく、けれどしっかりとした口調で隊員に呼吸法を指示している。彼女の手のひらから放たれる温熱の光は、一切の明滅もなく、安定した柔らかいものだった。
隊員たちも、魔力が枯渇して倒れ込んでいる者はいない。皆、水筒の水を飲みながら、私が教えた『肋骨を広げる深呼吸』を行い、次の指示に備えて整然と休養を取っていた。
私が最前線で障壁を張り、コンマ一秒の隙を稼がなくても。
彼らは自分たちで限界を見極め、退き、休み、戻る手順を、自分たちで回したのだ。
「……私がいなくても、勝てましたね」
私は、ポツリと呟いた。
バルド隊長が、ニッと白い歯を見せて笑う。
「お嬢様の教え通りに動きました。誰も見栄を張って無理をせず、誰も限界まで魔力を使い切って倒れたりしていません。しぶとく立ち上がり続けるのが、俺たち訓練班の武器ですからね」
「……ええ。素晴らしいわ。百点満点よ」
私が頷くと、隊員たちからワッと歓声が上がった。
その光景を見つめながら、私は胸の奥で、安堵と共にほんの少しだけの「寂しさ」を感じていた。
私が来る前に、戦いは終わっていた。望んでいた結果なのに、空いた自分の場所ばかり探してしまう。
「……少し、寂しそうですね」
不意に、すぐ隣から声がした。
いつの間にか到着していたフェリクス殿下が、観測器を片手に私を見下ろしていた。
「殿下。……いいえ、そんなことはありません。指導者としては、これ以上ない最高の結果ですから」
「ええ、知っています。君がそうやって、自分の弱さを論理で覆い隠そうとする不器用な人だということも」
殿下はクスリと笑い、私の肩にそっと触れた。昨日のような、ドキッとさせる熱はそこにはなく、ただ純粋な信頼の温かさだけがあった。
「彼らは自立しました。君の理論が、この辺境の土地に深く根付いた証拠です。……ですが、喜んでばかりもいられませんよ」
殿下は足元の魔獣を示し、観測器を私へ渡した。
「この魔獣たち……これまでは夜行性だったはずですが、白昼堂々群れを成して襲撃してきました。環境魔力圧の異常が、いよいよ彼らの生態系すら狂わせ始めています」
「……つまり」
「ええ。大魔潮の足音は、私たちが思っているよりもずっと早く、すぐそこまで迫っています。応急処置のままの第三塔と、位置だけ判明した第四塔を、急いで本復旧させなければなりません」
私は小さく頷き、ギュッと拳を握り締めた。
彼らが自立してくれたなら、私はもっと自由に動ける。私とフェリクス殿下で、この土地の『息継ぎ』を完全なものにするための、次のステップへ。




