第25話 謝れば終わる話ではありません
フェリクス殿下が王都へ向けて極秘資料と要求を送ってから、わずか数日後のことだった。
王家の紋章を掲げた早馬が、領主の館に飛び込んできたのは。
「殿下、王宮からの返答です。……信じられません」
書状を受け取ったバルド隊長が、目を見開いたまま執務室へと駆け込んできた。
殿下が素早く封を切り、文面に目を通す。私もその横から覗き込んだ。
『――三十六年前の旧緊急運用に関する事実関係は、現在調査中である。しかし、ローヴェル領周辺の異常な魔力圧の上昇と、大魔潮の早期到来の危機的状況に鑑み、特例としてローヴェル男爵領への大規模支援命令を即日発令する』
「即日発令……!」
「ええ。父上(国王)も、事の重大さを理解してくださったようです。言い逃れのできない証拠を突きつけましたからね」
殿下は書状の二枚目、具体的な支援の工程表が書かれた羊皮紙を机に広げた。
「王命はこの書状の日付で発令済みです。先遣の医師団と調査官、当面の保存食は街道の中継倉庫から三日ほどで届く。その後、数週間かけて避難用馬車、越冬用の食糧、塔を本格修繕する職人と資材が順次到着します」
私はその工程表を見つめ、小さく息を吐いた。
援助と引き換えに、何か理不尽な条件や要求を突きつけられるのではないかと警戒していたが、どうやらこの支援は無条件で行われるらしい。
「殿下。これで、逃げるにせよ残るにせよ、領民たちの選択肢は大きく広がります」
「ええ。ですが、この支援とは別に、私が果たさなければならない責任があります」
殿下は私を見て、静かに、けれど確固たる決意を込めて言った。
「リディア嬢。今日の午後、領都の広場に住民を集めてください。すべてを、彼らに話します」
その日の午後。
領都の中央広場には、突然の集会に戸惑う領民たちが集まっていた。
演壇の上に立つフェリクス殿下を、彼らは不安と不信感の入り交じった目で見上げている。無理もない。長年見捨てられてきた辺境の民にとって、王族とは遠い世界の、恐ろしくて冷酷な存在でしかないのだ。
「ローヴェル領の皆さんに、今日はお伝えしなければならない真実があります」
殿下のよく通る声が、広場に響き渡った。
彼は言葉を濁さず、王家が三十六年前の大魔潮の際に、王都を守るためローヴェルへ負荷を寄せる『旧緊急運用』を承認していたこと。そして、その後の修繕を怠り、この土地を事実上見捨てていたことを、包み隠さず公表した。
広場が、水を打ったように静まり返った。
やがて、その静寂は、じわじわと広がる怒りのざわめきへと変わっていく。
自然の災害だと思って耐えた被害に、王都の運用と、その後の放置が重なっていた。広場の後ろから、修繕願いはどうなった、と声が上がった。
「王家は、あなたたちを見捨てていた。その罪は、決して許されるものではありません」
殿下は、第二王子としてのプライドも威厳もかなぐり捨て、群衆に向かって深く、深く頭を下げた。
「本当に、申し訳なかった」
その時だった。
「ふざけるなァッ!!」
群衆の中から、一人の老人が怒声と共に進み出た。
彼は以前、魔獣の襲撃で息子夫婦を亡くし、今は小さな孫と二人で暮らしている男だった。老人の手には、泥の塊が握られていた。
「三十六年間! 俺たちがどれだけ苦しんだか、どれだけ死んだか! 今更頭を下げて、王様気取りで施しをくれれば、それで許されるとでも思っているのか!」
老人は力一杯、その泥の塊を演壇に向かって投げつけた。
泥はフェリクス殿下の美しい銀髪と、上等な服の肩口を直撃し、黒い汚れを散らした。
「貴様! 殿下に向かって何という真似を!」
激昂した王都の護衛騎士たちが剣の柄に手をかけ、老人を取り押さえようと飛び出した。
だが。
「やめろ!!」
殿下の裂帛の気合いが、騎士たちの動きをピタリと止めた。
「彼に触れるな。……これは、私が受けるべきものだ」
殿下は泥を払おうともせず、真っ直ぐに老人を見据えた。
「あなたの言う通りです。謝れば終わる話ではありません。過去の死者は戻らない。我々が奪った三十六年間は、どんな言葉を尽くしても補償しきれない」
その声は、震えていた。
彼は王都の安全な研究室にいて、この悲劇を直接引き起こした張本人ではない。だが、彼は王族として、逃げずにその泥を、怒りを受け止める道を選んだのだ。
「それでも……私は、あなた方に生き延びてほしい。まず三日後から届く先遣の支援は、王家からの施しなどではありません。あなた方が当然受け取るべき、遅すぎた補償です。どうか、これを使って生き延びてください」
老人はへなへなとその場に座り込み、両手で顔を覆って泣き崩れた。
広場全体を、やり場のない悲しみと怒りが包み込んでいる。
私は、演壇の端から殿下の横へと歩み寄った。
そして、領民たちに向かって、静かに、けれどはっきりと通る声で告げた。
「私はローヴェルの領主代行として、この謝罪と支援を受け取ります」
全員の視線が、私に集まる。
「ですが、彼らを……王家を許すかどうかは、皆さんが自由に決めることです。今すぐ許す必要なんてありません。一生恨み続けても構わない。でも今はただ、生き残るために、彼らが送ってくる物資を骨の髄まで使い尽くしましょう。……私たちは、大魔潮を生き残るための、限界管理の真っ最中なのですから」
老人はまだ顔を上げなかった。別の住民が、受け入れ地と出発便について尋ねた。殿下は泥の付いた紙を押さえ、分かっている予定を一つずつ答えた。
集会が解散した後。
執務室に戻った私は、泥で汚れた殿下の外套を濡れタオルで拭きながら、小さく息を吐いた。
「……痛かったですか?」
「いえ。泥の塊より、彼らの怒りの声の方が、ずっと重く響きました」
殿下は自嘲するように笑い、それから、真剣な目で私を見た。
「リディア嬢。ありがとう。君が横に立ってくれて、救われました」
私は彼を見つめ返し、ただ静かに首を横に振った。
あなたは、自分の手が汚れることを恐れずに、私の記録を信じ、領民の怒りを受け止めてくれた。だから、今度は私があなたの隣に立つ。
それは、ごく自然で、当たり前のことだった。




