第24話 王家の名前で終わらせる
ヴァルター局長が置いていった命令案には、旧緊急規程の番号だけが残っていた。
フェリクス殿下はその番号を鍵に、王立魔導研究院と王宮地下資料室へ照会を重ねた。三度目の請求で国王の許可が届き、領内の運用資料は私も照合できることになった。
そして数日後、分厚い書類の束がローヴェル領の仮設研究室に届けられた。
「……やはり、局長の言葉は事実でした」
机に広げられた色褪せた公文書を見つめながら、殿下は沈んだ声で言った。
私もその横から、書類の文面に目を落とす。
「三十六年前の大魔潮の際、王都を守るため、ローヴェル側の息継ぎ塔の機能を制限し、こちらへ意図的に負荷を寄せるという運用案。……時の国王陛下、つまり私の祖父が、これに承認のサインをしています」
殿下の指先が、書類の末尾に記された王家の紋章をなぞった。
「ただし、この承認には条件が付されていました。『これはあくまで一時的な緊急措置であり、五年以内に王冠中枢塔の全面修復を行い、ローヴェル領民への相応の補償を完了させること』と」
「では、どうして現在まで放置されていたのですか?」
「……怠慢です」
殿下は、吐き捨てるように言った。
「王家は承認だけを与え、その後の修繕と運用を王冠魔導局へ完全に丸投げした。魔導局は予算と手間の都合から修繕報告を先送りにし続け、王家もそれを厳しく監督しなかった。結果として、緊急措置が恒久化し、三十六年もの間、この辺境の土地だけが魔力圧の犠牲になり続けてきたのです」
それは、誰か一人の絶対悪が引き起こした悲劇ではなかった。
組織の硬直化と、遠く離れた辺境への無関心が積み重なって生まれた、緩やかな腐敗の連鎖だ。
殿下は両手を強く握り締め、真っ直ぐに私を見た。
「リディア嬢。私はこれまで、研究室に籠もって数字だけを追いかけ、外の世界の泥臭い現実に目を向けてこなかった。……私は、知らなかったで済ませるつもりはありません」
「殿下……」
「この事実の隠蔽は、王家全体の責任です。私は直ちに国王陛下(父上)へ全資料を提出し、過去の過ちの公表と、このローヴェルを救うための無条件の支援命令を引き出してみせます」
殿下は祖父の署名がある頁も抜かなかった。提出する資料の一番上へ、それを重ねた。
殿下が王都へ向けて通信魔法の準備を進めている間、領主の館のエントランスは、別の騒ぎで揺れていた。
「リディア様! そしてセシリア様! これ以上の我儘は許されません!」
王都から再びやってきた、父アルノルトの使者だった。
彼は顔を真っ赤にして、私と、私の背後に立つセシリアに向かって声を張り上げていた。
「伯爵閣下からの最後通牒です! 間もなく魔導局の政策により、このローヴェル領は見捨てられることが決定した。お前たち姉妹は直ちに本家へ戻り、身の安全と、その防衛の技術を確保しろとの仰せです!」
おそらく、父の耳にもヴァルター局長の避難政策の噂が入ったのだろう。
領地が放棄されるなら、私がここに残る大義名分(領主代行としての建前)はなくなる。だからこそ、今度こそ確実に「技術」だけを回収しようと必死になっているのだ。
「お断りします。私はこの土地の領主代行です。領民がどうするかを決める前に、私一人で逃げ出すような真似は――」
「リディア様がどうしてもと言うなら、せめてセシリア様だけでも連れ帰るよう命じられております! さあ、セシリア様、伯爵閣下がお待ちです。こんな泥まみれの辺境など、あなたに相応しくありません!」
使者が手を伸ばし、セシリアの腕を掴もうとした。
私は彼女を庇おうと前に出たが、それより早く、セシリア自身がスッと一歩前に踏み出した。
「……触らないで」
静かだが、凛とした声だった。
以前のような、父の顔色を窺い、怯えて縮こまっていた人形のような少女の姿はそこにはない。毎日泥だらけになって訓練班の皆と一緒に走り込み、魔力制御の基礎を学び直している彼女の目には、確かな自分の意思が宿っていた。
「私は、帰りません」
「セ、セシリア様……? 何を仰るのですか! 閣下の命令ですよ!」
「お父様には、私がこう言っていたと伝えてください」
セシリアは、真っ直ぐに使者を見据えて言い放った。
「お姉様から教わっている『制御』の訓練が、まだ途中ですから、と」
使者は絶句し、ワナワナと唇を震わせた後、「……後悔しますぞ!」と捨て台詞を吐いて、逃げるように馬車へと戻っていった。
土煙を上げて去っていく馬車を見送りながら、私は小さく息を吐き、隣に立つ妹を見た。
「よかったの? セシリア。お父様の命令に背いたら、王都にあなたの居場所はなくなるかもしれないわよ」
「構いません。お姉様が、私の本当の居場所を作ってくれましたから」
セシリアは私を見上げて、花が咲くように笑った。
私は返書へ、妹が自分で滞在を望んだことも書き添えた。笑顔が戻っても、痛みの申告はやめさせない。
夜。私は執務室で、フェリクス殿下と向き合っていた。
「……殿下。国王陛下へ告発の資料を送れば、殿下の王宮での立場も危うくなるのではありませんか?」
私が気遣うように尋ねると、殿下はペンを置き、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「その地位で果たすべき仕事です。立場を守るために隠せば、次も同じことになる。それに……」
彼は窓の外、領都の夜景を見つめた。
「私が逃げれば、君がこの土地で証明しようとしている『努力の価値』に、泥を塗ることになる。……王家の失敗は、王家の名前で終わらせます」




