第23話 辺境を捨てれば命は助かる
第二塔から戻った私たちを、黒い法衣の男が待っていた。
「王冠魔導局長、ヴァルター・ゼルク。なぜ貴方がここに」
フェリクス殿下の声が低くなる。
ヴァルターは薄い書類を机へ置いた。表題は『ローヴェル全域退避命令案』。
「大魔潮までに全住民を王都近郊へ移します。土地と当面の生活費は魔導局が補償する」
「移住先の戸数と仕事は」
「世帯名簿の提出後に割り振ります」
「先に土地を空けろ、と?」
私が頁をめくると、補償額は総額だけで、受け入れ先の署名もなかった。
「小作人や、土地の登記を持たない鉱夫は対象ですか。移動できない病人の搬送責任者は。仕事を失った家族への補償期間は」
「細則は退避の決定後に詰めればいい」
ハンスの顔が強張った。この順序で名簿を渡せば、人ではなく運べる数字だけが選別される。
「この条件では、退避した人が生きられる保証になりません」
「残れば死ぬ。土地を捨てれば命は助かる。それ以上に明快な計算が必要ですか」
ヴァルターの指が、命令案の末尾にある条項を叩いた。
「旧緊急規程に基づき、災害時は王冠中枢塔の保全が優先されます。運用区域であるローヴェルは、実施前に無人化しなければならない」
フェリクス殿下が書類を取り上げた。
「何を実施する。なぜ中枢塔の保全に、ローヴェルの無人化が必要なのです」
「機密区分の資料です。研究院所属の第二王子殿下にも、王宮資料室の閲覧鍵はないはずだ」
「王族への説明もなく、王族の名で領民を動かすのですか」
「殿下にあるのは資料閲覧を請求する権利までです。現場運用は魔導局の所管でございます」
丁寧な言葉だった。だが、彼はフェリクス殿下が今ここで止められないことを正確に知っている。
答えないこと自体が答えだった。ローヴェルへ何かを押しつける。その前提で、住民だけをどかそうとしている。
「避難は否定しません」
私は命令案を閉じた。
「危険なら逃げるべきです。ただし、行き先も生活も示さず、同意も取らず、中央の都合で追い出すことを避難とは呼びません」
「容量二十七の領主代行殿が、王国全体の損失計算を覆す根拠をお持ちですか」
「領主代行として、住民の名簿に責任を持っています。署名はできません」
「拒めば、どうなります」
「強制執行の王命を上申します。その時は補償条件も今より悪くなるでしょう」
脅しではない。彼にとっては、損失を減らすための予定を読み上げているだけだった。
ヴァルターは私を説得しなかった。代わりに、空欄の署名欄へ冷たい視線を落とした。
「期限までに提出されなければ、王命を求めます。数字は感情を待たない」
彼が去った後、フェリクス殿下は命令案の規程番号を紙へ写した。
バルド隊長が扉を睨む。
「逃げる準備は進めています。だが、あいつらが何かを隠したまま追い出すなら話は別だ」
「避難そのものを意地で拒むつもりはありません。行き先と選択権を、こちらで握ります」
私はハンスへ、中央からの支援を待たずに動かせる馬車と避難先を洗い直すよう命じた。調査の間も、命を賭け札にはしない。
「私にできるのは資料閲覧と報告、監査要請までです。ですが、この番号があれば父上へ閲覧鍵を請求できる」
「断られたら?」
「断った記録を残して、もう一度請求します」
殿下は声こそ静かだったが、請求書を持つ指に力が入っていた。家族の署名が何を許したのか、自分の目で確かめなければならない。
いつも私の記録を守った人が、自分の家の記録へ刃を入れようとしている。
「一緒に調べます。母の箱にも、中央へ出した修繕願いが残っていました」
殿下は頷き、王宮宛ての請求書を書き始めた。
私はその横で母の箱の目録を作った。中央が隠した紙と、辺境に残った紙。二つを重ねるまで、誰の説明も答えにはしない。




