第21話 母の帳簿
セシリアの魔力暴発を無事に鎮め、彼女が正式に『ローヴェル魔力訓練班』の一員として加わることになってから、数日が過ぎた。
予備測定で大きな容量を記録した彼女に、私は「大出力に制御を足す」ための新しいフォームを基礎から叩き込んでいる。泣き虫な人形だった妹が、泥だらけになりながら私の指導に食らいついてくる姿は、少しだけ誇らしく、そしてこそばゆかった。
その日の午後。私は執務室で、執務長のハンスから一冊の古い手帳を渡された。
「地下の書庫を整理しておりましたら、見慣れぬ木箱の底からこれが出てきまして。表紙の紋様からすると、先代の奥様――リディア様のお母様が書かれたものかと思われます」
「お母様の……」
私はハッと息を呑み、その古びた革張りの手帳を受け取った。
母エレナ。ローヴェル男爵領の本来の継承者であり、私がまだ幼い頃に病で亡くなった人。
私は震える指で表紙を開いた。
そこには、母の几帳面な文字で、日々の領地運営の記録が綴られていた。
麦の収穫量、冬を越すための薪の備蓄、怪我をした領民への見舞金の支出。数字の羅列の中にも、母がどれほどこの痩せた土地と領民たちを愛し、守ろうと必死に足掻いていたかが、行間から滲み出ているようだった。
「……優しい人だったのね」
王都の伯爵家では、母の思い出を語ることはタブーのように扱われていた。父にとって、母の生家であるこの領地はただの「不採算の重荷」でしかなかったからだ。
ページを捲る私の手が、不意にピタリと止まった。
『――東の森にある《息継ぎ塔》の明滅が、最近不規則になっている。周囲の空気が重く、領民の間に原因不明の頭痛や倦怠感を訴える者が増えてきた』
「息継ぎ塔……」
私は目を見開いた。母は知っていたのだ。あの古塔が魔獣除けなどではなく、地下の魔力圧を逃がすための排気口であることを。
さらにページを追うと、驚くべき記述が続いていた。
『塔の内部機構には、魔力を逃がすだけでなく、一定期間ごとに《休ませる日》を設けなければならない。しかし、今の私には塔の目詰まりを掃除するだけの精密な魔力制御技術がない。このままでは、塔が完全に沈黙してしまう』
母は、私が「インターバル」と呼んでいる休養の概念が、あの塔にも必要であることを理解していた。理解していながら、それを直す手段を持たず、ただ迫り来る異常に一人で焦燥を募らせていたのだ。
『王冠魔導局へ、塔の修繕と専門技術者の派遣を要請する手紙を書いた。これで五度目だ。どうか、届いてほしい』
しかし、その後のページには、絶望的な一文だけが記されていた。
『却下された。予算不足、緊急性なし。……中央は、この土地がどうなっても構わないというの?』
「…………」
私は、手帳を握りしめる手にギリッと力を込めた。
高まる魔力圧が母の病に影響したのか、この帳簿だけでは証明できない。けれど、母が異常を記録し、五度も助けを求め、それが握り潰されたことだけは動かせなかった。
この領地は、貧しいから荒れたのではない。助けを求める声を、中央が見ないことにしたのだ。
私は手帳を抱えたまま執務室を飛び出し、フェリクス殿下の仮設研究室へと向かった。
「殿下、これを」
「……これは、お母様の手記ですか」
私が差し出した帳簿に目を通した殿下は、みるみるうちに顔を曇らせた。
「王立魔導研究院の過去の資料には、ローヴェル領からの修繕要請の記録など一切残っていませんでした。却下通知との照合が必要ですね。受け取った形跡まで消えたのか、別の台帳にあるのか、調べます」
「お母様は、一人でこの土地の異常に気づき、守ろうとしていたんです。……なのに、誰も助けてくれなかった」
私の声が微かに震えるのを察して、殿下は手帳を机に置き、真っ直ぐに私の目を見た。
「リディア嬢。お母様の孤独な戦いは、決して無駄にはなっていませんよ。彼女が残したこの記録が、今こうして君の手に渡り、私たちが真相に近づくための道標になっているのですから」
母が待った返事を、今は二人で待てる。手帳の角を押さえていた指から、少し力が抜けた。
「……それで、殿下。お母様の記録から、他に何か分かることはありますか?」
「ええ、極めて重要な事実が一つ」
殿下は手帳のあるページを指差した。
「ここに、『第一塔の不調により、残る三基への負荷が増大している』とあります」
「残る、三基……?」
「はい。東の森のあの塔は、あくまで『第一塔』に過ぎない。このローヴェル領内には、あの息継ぎ塔と同じ機能を持つ魔力制御塔が、あと三基――合計で四基存在しているということです」
私は息を呑んだ。
一つの塔を再起動させただけでも、あの夜の魔獣の勢いを大きく削ぐことができた。もし、残り三基の塔をすべて見つけ出し、四基すべてを完全に再起動させることができれば。
「四つの排気口が全て機能すれば、八ヶ月後に迫る大魔潮の魔力圧を、大幅に逃がすことができるかもしれない……!」
「その通りです。ただし、他の三基は完全に封印されているか、あるいは意図的に隠されている可能性が高い」
殿下は地図を開き、母の記した方角へ印をつけた。
「急ぎましょう、リディア嬢。大魔潮までに残り三基の塔を見つけ出し、すべてを再起動させる。それが、私たちが成し遂げるべき最大のミッションです」




