第19話 妹が来た
領主の館の中庭に、土埃を上げて一台の立派な馬車が到着した。
車体に刻まれた紋様は、王都のエルフェルト伯爵家――つまり、私の実家のものだ。
「……何の用かしら」
執務室の窓からそれを見下ろし、私は小さく溜息をついた。
少し前に届いた手紙で『防衛の訓練法を本家に還元するため、直ちに戻れ』という父からの要求を撥ね退けたばかりだ。今度は力ずくで連れ戻すために、追手を差し向けてきたのだろうか。
私はバルド隊長を伴い、玄関ホールへと向かった。
馬車から降りてきたのは、エルフェルト本家の中年騎士だった。そして彼に促されるようにして、もう一人、華奢な少女が姿を現した。
豪奢なフリルのついた旅行用のドレス。透き通るような金糸の髪。
「……セシリア」
私の妹。学院の予備測定で824を出し、父の期待と愛情を一身に背負っている少女が、相変わらず感情の読めない人形のような無表情でそこに立っていた。
ただ、王都にいた頃よりも随分と顔色が青白く、足取りがおぼつかないように見える。
「リディア様。お迎えいただき恐悦至極に存じます」
本家の騎士が、さして敬意の籠もっていない態度で一礼した。
「アルノルト伯爵閣下より、リディア様を本家へ連れ戻すよう仰せつかってまいりました。セシリア様が『姉上の説得なら自分が』と申し出られたため、同行をお許しになったのです」
「セシリアに、私を説得させようと?」
「左様でございます。ご家族の言葉であれば、本家のためにその知恵を還元する気にもなられるでしょう」
私は冷たく鼻を鳴らした。
相変わらず、父は私の「成果」だけを欲しがり、私自身の意思を尊重する気はないらしい。その上、私が嫉妬し、劣等感を抱いている妹をわざわざ使者として寄越すとは、どこまで無神経なのだろうか。
「お帰りなさい。私はローヴェル男爵領の領主代行として、大魔潮の対策と領民の避難計画を指揮する義務があります。お父様の都合だけで、この職務を放棄することはできません」
私が即座に言い放つと、騎士は苛立たしげに眉をひそめた。
「リディア様。魔力二十七の小細工がたまたま数回上手くいったからといって、伯爵閣下の命に背くおつもりですか? これは本家からの絶対の命令です。どうしてもと仰るなら、力ずくでも――」
「力ずく? 誰に向かってそのような口を利いている」
玄関ホールの奥から、氷のように冷たい声が響いた。
振り返ると、フェリクス殿下が腕を組み、静かな怒気を纏って立っていた。第二王子としての絶対的な威圧感が、一瞬にしてその場を支配する。
「で、殿下……! この帰還要請にも、お立会いなのですか……っ」
「私は今、彼女と共に大魔潮に対抗するための重要な魔脈調査を行っている。彼女はこの領地の防衛責任者であり、私にとって欠かせない研究の相棒だ。領主代行として赴任した彼女を、本人の同意もなく連れ帰れるとお考えですか」
フェリクス殿下は、騎士を冷たく一瞥した。
「本家が代行職を解くつもりなら、任命の根拠を添え、領務監督官へ正式に照会してください。私は今日のやり取りを、そのまま王宮へ報告します」
「は、はいっ! も、申し訳ございませんでした!」
王族からの直接の叱責に、騎士は顔を真っ青にして後ずさった。
彼はそそくさと馬車に戻ろうとし、途中で立ち尽くしているセシリアを振り返った。
「セシリア様、説得は失敗です! 我々は直ちに王都へ戻り、閣下にご報告を――」
「……いいえ」
それまでずっと黙って俯いていたセシリアが、掠れた声で言った。
「私は、ここに残ります」
「な、何を仰るのですか! 閣下がそのようなことをお許しになるはずが……!」
「お父様には、私がもう少し時間をかけて、お姉様を説得すると伝えておいて。……下がって」
セシリアが微かに魔力を込めて睨みつけると、高魔力者特有の圧に押され、騎士は「し、承知いたしました」と逃げるように馬車へ乗り込み、王都へと去っていった。
バルド隊長が馬車を門まで見送り、私と殿下と妹が残った。
私は、自分の腕を強く抱きしめるようにして立つセシリアを、複雑な思いで見つめた。
「……監視するつもり?」
私の口から出たのは、棘のある冷たい言葉だった。
「お父様に言われて、私がここで何を企んでいるのか、探りに来たのでしょう。それとも、魔力二十七の姉が辺境で泥まみれになっているのを、高魔力の優等生として笑いに来たの?」
「…………」
セシリアは何も答えなかった。
ただ、ギュッと唇を噛み締め、顔を伏せたまま震えているだけだった。その態度が、私には「反論する価値もない」と言われているように見え、さらに心を波立たせた。
その日の夕方。
セシリアを客室へ案内させた後、私は執務室で一人、頭を抱えていた。
彼女に対して、大人気ない態度をとってしまった。私はもう前世の記憶を持った三十一歳の大人の精神であり、嫉妬などという感情はコントロールできるはずだったのに。
コンコン、と控えめなノックの後、侍女のミラが入ってきた。
「お嬢様。少し、よろしいでしょうか」
ミラの手には、何度も折り直された一枚の羊皮紙があった。表には、セシリアの字で『お姉様へ』とだけ書かれている。
「廊下で落とされたものです。中は読んでおりません。お嬢様からお返しください」
私は迷った末、客室の前まで行った。扉越しに名を呼んでも返事がない。紙を開くと、震える字が途中で何度も乱れていた。
『お姉様、助けてください。頭が割れそうで、魔力が勝手に溢れます。怖い。お父様は休ませてくれません。帰還を説得すると言えば、ローヴェルへ行けると思いました。ごめんなさい』
帰還説得は、父に旅を許させるための名目だった。
セシリアは命じられただけで来たのではない。自分の不調が怖くて、私を頼るためにここまで来たのだ。
紙を握った指に、力が入らなくなった。
先日、市場でフェリクス殿下が語っていた言葉が蘇る。
『高魔力生徒の間に急増している魔法酔いと頭痛』。
セシリアの学院予備測定値は824。王立学院の中でも突出している。
大魔潮が近づくにつれ、ローヴェル周辺だけでなく、王国全体の環境魔力濃度が徐々に上昇し始めている。タンクが大きすぎる彼女は、大気中の濃い魔力圧を無意識に過剰に取り込んでしまい、神経系が耐えきれなくなっているのだ。
父は頭痛を知っていた。勉強疲れと書いた手紙が、私の引き出しにある。私はそれを読んでいながら、目の前に来た妹へ、監視に来たのかと尋ねた。
「私、なんて馬鹿なことを……!」
嫉妬に目が眩み、彼女が発していたSOSのサインに、一番の弱点であるフォームの崩れに、全く気づいてやれなかった。
私は返事のない客室の扉へ、もう一度手を伸ばした。今度は遠慮している場合ではなかった。
妹の固い表情は、私を見下す顔ではなかった。
ただ、ずっと怖くて、痛みを耐えていただけだったのだ。




