第18話 君がここにいてよかった
フェリクス殿下に誘われ、私は領主の館を抜け出して領都の市場へと向かっていた。
「……殿下、それは何ですか」
「ん? ああ、王都からの魔脈観測データをまとめた研究メモですよ」
「没収します。今日は『完全休養日』です。役に立つことを考えてはいけません」
私が彼の手から革張りの手帳を取り上げると、殿下は残念そうな顔をした。
「厳しいですね、教官。では、この時間は何をすれば……」
「そうですね……とりあえず、歩きましょう」
偉そうに没収してみたものの、実のところ私も「役に立たない時間」の過ごし方が全く分からなかった。前世でも休日はジムに行くか、鶏肉を買い込むか、次の大会の計画を練るかの三択だったのだ。
私たちはぎこちない沈黙のまま、並んで市場を歩き始めた。
少しずつ活気を取り戻し始めた市場には、近隣の村から持ち込まれた野菜や、職人が作った日用品が並んでいる。
すれ違う領民たちが、私と殿下の姿に気づいて小さく頭を下げていく。少し前までは諦めと疲労の色しかなかった彼らの顔に、今は微かな希望と生気が戻りつつある。
「……君の訓練班のおかげですね。街の空気が変わった」
「いいえ。私がやったのはフォームの修正と限界管理だけです。彼らが元々持っていたしぶとさが、形になっただけですから」
そんなふうにぽつぽつと会話を交わしていると、後方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
振り返ると、王家の紋章をつけた早馬の伝令が、私たちを探して駆け寄ってくるところだった。
「フェリクス殿下! 王都の魔導研究院より、緊急の書状にございます!」
「緊急? ご苦労。……何事だろうか」
殿下は伝令から封筒を受け取り、その場で手早く封を切った。
彼は読み終えても、封筒へ手紙を戻さなかった。
「……どうしましたか、殿下」
私が尋ねると、殿下は重い溜息と共に手紙を折りたたんだ。
「あまり良い知らせではありません。王立学院に在籍している『高魔力』の生徒たちの間で、原因不明の激しい頭痛や魔法酔いを訴える者が急増しているそうです」
「頭痛と、魔法酔い……」
「ええ。大魔潮の接近に伴う、王国全体の環境魔力濃度の上昇。それが、魔力容量の大きすぎる彼らの許容量を圧迫し始めているのでしょう。彼らはタンクが大きい分、外部からの魔力圧を過剰に取り込んでしまう」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が嫌な音を立てた。
王立学院。高魔力。そして、頭痛。
『――追伸。セシリアは近頃頭痛が多いようだが、学院での勉強疲れだろう』
先日、父から送られてきた手紙の一文が、脳裏にフラッシュバックする。
セシリアの学院予備測定値は824だ。法的な確定値ではなくても、同年代では群を抜いて高い。もし彼女の頭痛が、ただの勉強疲れなどではなく、この大気魔力の上昇による深刻な魔法酔いだとしたら。
容量が大きいということは、それだけ制御が難しいということだ。限界を超えて圧力がかかれば、暴発を引き起こしかねない。
「……っ」
私は唇を強く噛み締め、俯いた。
セシリアの才能を妬んでいた。王都で父の愛を独占している彼女が羨ましかった。
けれど、だからといって彼女が苦しむのを望んでいるわけではない。 ここで訓練を始めた時、妹へも手紙を書くべきだった。けれど私の便箋には、父への反論ばかりが並んでいた。
「……リディア嬢?」
私が足を止め、沈み込んでいることに気づいた殿下が、心配そうに声をかけてきた。
「顔色が悪いですね。もしかして、君も魔力酔いを……?」
「……いえ、違います。ただ……」
私は首を横に振った。
「自分が、嫌になっただけです。私の訓練は低魔力者のために組んだものです。大きすぎる圧を安全に逃がす方法は、まだ試せていない。王都にいる妹へ、ここから教えることもできない」
役に立てなければ、積み上げたものまで無価値になる。古い恐怖が、また喉元までせり上がっていた。
私が自嘲気味に呟くと、殿下は少しの間沈黙し、やがて静かな声で口を開いた。
「……不謹慎なことを言うようですが」
彼が真っ直ぐに私を見つめる。
「私は今、君がここにいてくれてよかったと……そう思っています」
「え……?」
思わぬ言葉に、私は顔を上げた。
殿下の深い青の瞳には、一切の誤魔化しがなかった。
「君が魔力二十七だったから、誰も見なかった技術に光が当たった。それは事実です。ですが、今ここで妹君を助ける答えが出せなくても、君が積んできたものまで消えはしない」
殿下は、私の目を見つめたまま言った。
「役に立てるかどうかとは別に、君がここにいてくれてよかった。私は、そう思っています」
――ドクン。
心臓が、跳ねた。
これまでの『最適対応フローチャート』も、呼吸法も、脱力も、すべてが一瞬で吹き飛んだ。
役に立てないと口にした直後でも、隣にいたいと言ってくれる。今度ばかりは、仕事の相棒という意味へ逃がせなかった。
「あ……、あの、殿下、それは……っ」
顔がカッと熱くなるのが自分でも分かった。
何か返事をしなければ。教官として、領主代行として、あるいは貴族の令嬢として。
だが、口をパクパクさせるだけで、気の利いた言葉は一つも出てこない。完全なエラー状態だ。
そんな私を見て、殿下もハッとしたように言葉を切った。
彼は少しだけ目を見開いた後、ふいっと視線を横に逸らした。
……よく見れば、彼の耳の先が、微かに赤く染まっている。
「……失礼。少し、感情が出すぎましたね。忘れてください」
誤魔化すように咳払いをする殿下。
しかし、一度意識してしまったこの甘く重い空気は、そう簡単に消えてはくれない。
二人して赤くなりながら、役に立たない時間をただ歩く。
恋愛のバグは、私の論理的思考を確実に、そして取り返しのつかないところまで侵食し始めていた。




