第16話 塔が、ひとつ息をした
領都から東へ進んだ、深い森の奥。
木々が切り開かれた不自然な空白地帯の中央に、その石造りの『古塔』はそびえ立っていた。
かつては監視塔だったと言い伝えられているが、表面には蔦が絡まり、所々崩れ落ちている。
私とフェリクス殿下、そしてバルド隊長率いる数名の護衛は、その古塔の入り口に立っていた。
「……空気が、重いですね」
私は胸元を押さえ、小さく息を吐いた。
塔に近づくにつれて、大気中の魔力濃度が明らかに跳ね上がっている。まるで見えない水の中に沈んでいるような、あるいは酸素の薄い高地に立たされているような、肺が圧迫される感覚があった。
「ええ。王都の平常時の、およそ五倍の魔力圧です。魔力酔いを起こしかけたら、すぐに言ってください」
フェリクス殿下も険しい顔で観測器の数値を読み上げながら、塔の内部へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。天井は高く、螺旋階段が上へと続いているが、崩落の危険があるため上ることはできない。私たちの目的は、一階の中央に鎮座している、巨大な円筒形の石の台座だった。
先日の夜間防衛戦の最中。この塔は一瞬だけ青緑色の光を放ち、周囲の魔力圧を劇的に低下させ、狂暴化していた魔獣たちの勢いを削いだ。
その原因を突き止めるための、本格的な現地調査だ。
「この台座……表面に無数の細かい溝が彫られています。魔力経路ですね」
殿下が台座の表面の埃を払い、片眼鏡を当てて丹念に調べ始めた。
「地下深くを流れる『王冠の魔脈』と直接繋がっている。しかし、経路のほとんどが長年の汚れと魔力の澱みで目詰まりを起こしていますね。先日は周囲の魔力圧が限界を超えたため、安全弁が弾けるように一瞬だけ自然起動したのでしょう」
「直せそうですか?」
「物理的な破損は少ないようです。ですが、この目詰まりを掃除しなければ本格的な起動は無理だ。……厄介ですね」
殿下は腕を組み、小さく息をついた。
「汚れを吹き飛ばすためには、台座に魔力を流し込まなければなりませんが、今のこの老朽化した回路に高火力の魔法をドンと流し込めば、内側から破裂してしまう。かといって出力が弱すぎれば、澱みは押し流せない」
「つまり、回路を傷つけない程度の低い出力を、一切ブレさせずに細く長く流し続ける必要がある、ということですか?」
私が尋ねると、殿下は頷いた。
「ええ。針の穴を通すような精密さと、持続力。並の魔術師では、途中で出力が跳ねるか、息切れして回路にダメージを与えてしまう」
「大出力を出せない私に、ぴったりの役割ですね」
私は迷わず一歩前に出た。
バルド隊長が「お嬢様、大丈夫ですか」と気遣うように声をかけてくれるが、私は彼に向かって軽く微笑んだ。
「心配いりません。バルド隊長。私が毎日、訓練場で何を繰り返していたか知っているでしょう?」
私は台座の前に立ち、両手をその冷たい石の表面に置いた。
目を閉じ、深く息を吸い込む。肋骨を広げ、腹圧を安定させる。足の裏でしっかりと床を捉え、背筋を伸ばして肩の力を抜く。
小灯火レップで確かめた姿勢へ戻す。作業の上限を殿下と確認し、私が切るべき時刻を告げてもらう。
「……いきます」
細く長く息を吐き出しながら、私は手のひらから台座の溝へと魔力を送り込んだ。
最初は、泥の壁に水を注ぐような強い抵抗を感じた。無理に押し込もうとすれば、力が反発して回路を傷つけてしまう。私は決して力まず、魔力の圧力を一定に保ったまま、澱みの隙間へじわじわと浸透させていくことに集中した。
「すごい……」
背後で、殿下が息を呑む気配がした。
「経路にかかる負荷が、完全に一定に保たれている。これなら古い回路も傷つかない……」
「はぁっ……ふぅっ……」
呼吸だけを意識する。
数分が経過した。額から汗が流れ落ち、魔力を通す腕の筋肉が微かに震え始める。肩が上がりかけ、私は押し込む力を少し落とした。
やがて、台座の奥から「ゴゴゴ……」という低い振動が伝わってきた。
詰まっていた澱みが抜け、私の魔力と地下の魔脈が直結した感覚。
「殿下、開通しました!」
「そのまま、あと十秒維持してください! 塔の起動シークエンスに入ります!」
台座の表面に彫られた紋様が、淡い青緑色の光を帯び始めた。
光は螺旋を描きながら塔の上部へと駆け上っていく。
そして、十秒後。
ドォンッ!
塔の深部から、地鳴りのような重い駆動音が響いた。
直後、塔の頂上部にある解放口から、目に見えない巨大な『空気の柱』が天に向かって真っ直ぐに吹き上がるのを感じた。
突風が森の木々を激しく揺らす。
だが、それはただの風ではない。高濃度の魔力の奔流だ。
「……っ、ふう!」
私は魔力を切り、台座から手を離して大きく息を吐いた。
それと同時に、塔の周辺にまとわりついていたあの『重い空気』が、嘘のようにスッと霧散していくのが分かった。
肺に新鮮な空気が入り込んでくる。高地から平地に降りてきたような、劇的な気圧の変化だった。
「空気が……軽くなった?」
入り口付近で警戒していたバルド隊長も、驚いたように周囲を見回している。
「魔獣の気配が、どんどん遠ざかっていきます。森全体が、静かになったような……」
その言葉に、フェリクス殿下が観測器の数値を食い入るように見つめ、やがて興奮を抑えきれないような声で叫んだ。
「やはり、間違いない! リディア嬢、この塔は『魔獣除け』の結界などではない。地下の魔脈に溜まった過剰な魔力圧を、地上、さらにその上空へと逃がすための『排気口』なのです!」
「排気口……」
「ええ。周囲の魔獣が寄り付かなかったり、大人しくなったりしたのは、塔が結界を張っていたからではありません。この塔が魔力圧を抜いてくれたおかげで、魔獣を狂暴化させる原因そのものが取り除かれていたからです」
殿下は愛おしそうに台座を撫でた。
「だから、文献には『休止』の刻みがあった。魔力を吸い上げ続けるだけでなく、人間が呼吸をするように、吸っては吐いて圧力を逃がす。……これは、土地の『息継ぎ』を行うための塔です」
息継ぎ塔。
その言葉が、ストンと腑に落ちた。
働き続けることより、止める時を決める。人に教えていたことが、台座の刻みにも残っていた。
「殿下。ということは、この塔を完全に修復して再起動させることができれば……」
「はい。八ヶ月後に迫っている大魔潮の到来を遅らせるか、あるいは、その被害規模を劇的に極小化できる可能性があります」
殿下が私を振り返り、目を輝かせた。
「リディア嬢。君の『低燃費』と『インターバル』の理論が、この塔の謎を解き明かしてくれました。これは、ローヴェルを……いや、この辺境全体を救うための、確かな希望です」
魔力二十七で、不採算領の整理という名目で追いやられた辺境の地。
一年後に滅ぶと言われていたこの土地に、初めて「生き残れるかもしれない」という明確な道筋が見えた瞬間だった。




